2017,03,21, Tuesday
2月に入ってから、僕はたびたび山梨県の早川町へ。次の住居となる物件の確認や諸々の手続き、そして改修に向けた準備に取り掛かっていました。そして明浜に居残った(わ)が進めてくれた箱詰めの荷物が、背中の後ろに積み上がっています。明浜での暮らしも、残りあとわずか。
農業に希望を失ったわけでも、体を壊したわけでも、地域付き合いに嫌気が差したわけでもありません。新規就農の先輩たちが何人も出ていくのを目の当たりにしてきましたが、それとは全く別の理由でここを出ていくなんて、インド・コルカタから(わ)と(う)を連れて戻ってきたときには、まさか思いもよりませんでした。 突如、地元に沸いて出た大規模風力発電のための巨大風車建設。現計画では、明浜のほとんどすべての子どもが通うことになる、地域で唯一の小中学校の上の山に集中的に立ち並びます。この配置は当初の計画から変更されたもので、僕たちの地元地区の住民運動から導き出されたものでした。この住民グループに、勉強して様々な知識を提供したのも、僕でした。健康被害のことはおろか、いまだに計画自体知らされていない人が少なからずいるみたい。そのことに大きな責任を感じて活動を続けていましたが、とうとう森林伐採も始まり、本格的な着工のようです。 計画が覆るどころか、万が一に健康被害が発生した場合の話し合いやそのための手続きについて、取り決めが交わされる見込みも全くないままでした。我慢ならなかったのは、そういう健康被害が全国、世界中で起きている中で、現実のリスクを被るのが、我が家にとっては子どもたちだけだということ。普通は、逆です。ホームエデュケーションや越境通学も検討しましたが、僕たちは家族で引っ越して、学区を変えてやることを決めました。 「どこに行っても、そういうリスクと向き合わなければならないんだよ?」、そういうアドバイスをもらうこともありました。その通りだと思います。僕たちもきっと、エネルギーの地域自給とか、まちつくりのための市民ビジネスといった趣旨と引き換えのリスクであれば、受け入れたことでしょう。でもそうではない。誰も幸せにしない技術で、他所からやってきた資本力のある企業が、地域資源の〝風〟を売り物にして大儲けするだけのこと。 それを後押ししようとする権力が存在するのも、どこか納得できるところがあります。そういう経済活動がもたらす便利な暮らしを、これまで享受してきたという自覚もある。僕は正義感で動いていたのでは、ないようです。ではなぜ、こんな活動を続けているんだろう、と自問してきました。そのころには、単なる健康被害の問題ではなくなっていました。 自分の〝当事者意識〟の問題なのだと気づきました。 企業や行政を悪者にする気は、毛頭ありません。でもこれは理不尽な開発であるのもまた事実。それを受け入れるということが、どんな未来を暗示するのかを考えて、ゾッとするような不安を覚えました。不安を覚えて、僕はここで、本当にまちつくりをしたかったのだと解りました。 思えば〝当事者意識〟という課題と、ずっと向き合ってきたように思います。まちつくりとして何をするかというよりは、地域で暮らす上で、どんな人間でいられるか、でした。 子どもの毎日の食事を考えたことも、ましてや調理をしたこともない人が謳う『食の安全』って、何なのだろう。石垣を直す体力も技術もない人が、この景観を自慢して、どうなるのだろう。罠をかけたことも、獣道の見極めもできない人が、イノシシが獲れた後のことを心配して、「可哀想で、殺すことなんてできん」なんて、肉を煮込む鍋をつつきながら語るもんだから、頭が真っ白になる。 精神的な困惑の中で、僕の〝当事者意識〟を押し上げていったのは、自然栽培との出会いであり、実践的な模索でした。チャレンジに対して、いつも背中を押してくれたのは、このかんまん部屋でした。かんまん部屋で、豊かな出会いがたくさんありました。実に幸福なエネルギーでした。そんなかんまん部屋を支えていたのは、(わ)と子どもたちの明るさ、そして健やかさ。これには僕も、何度も救われてきました。 家族仲良く元気よく農業を続ける、そんなあたり前のことが足元から覆ってしまうようなことが今後起きないように、そんな思いで立候補を決意した市議会議員選挙も、精一杯のことができてよかった。本当に大きな経験でした。 憲法が変わろうかという時代にあって、ずっと夢を持ち続けてくることができました。負け続けだったけど、心まで屈することは決してなかった。 縁というのは不思議なもので、移住先は山梨県の早川町になりました。僕が学生のときに初めて出会った地域づくりの現場です。大学研究室の先輩Kさんは、早川町への先達移住者で、いまは4月から僕が勤務する日本上流文化圏研究所の事務局長を務めています。 Kさんが出張ついでに、明浜へひょっこり遊びに来たのは、僕たちが引っ越しを真剣に検討をし始めた夏のこと。このときKさんが来なかったら、有力な候補地として浮上することすらなかったかもしれません。 すぐあとのお盆には、早川町を家族で訪問。僕にとっては十数年ぶりでしたが、学生の頃に議論していたテーマが、まちつくりの成果として根付き始めていることに、感慨深いものがありました。環境も地域教育もすっかり気に入った(わ)と子どもたち。そして、これまで僕も(わ)もあまり顧みることのなかった両親たちが、曲がりなりにも遠い四国から近づいてくることを喜んでくれたことが、最後のひと押しになりました。 これまでの経験をすべて、早川町で生かしていく所存です。 経験や能力の出し惜しみはしません。恥ずかしがったり、委縮することも、もはやありません。いままでも極力してこなかったつもりですが、周囲を批判的に評して、自分を相対的に高めようという気は今後一切起きません。これからも、まちつくりを楽々と肯定します。 正直言えば、最近になってようやく、この移住を前向きに捉えられるようになってきました。それもあって、明浜を離れる前に、これからの人生の指針を公に書き残しておかなければと思い、綴り始めたこの記事も、そろそろ閉じようと思います。これからも上原家は元気にやっていきます。長文、ごめんなさい。 (ゆ) |
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