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秋祭り2014


 牛鬼組も、これで4回目。それまでの2回はしんどいばかりだったけれど、前年の3回目のときに、初めて本番で暴れまくる楽しさを覚え、今回では牛鬼の中に入る15人のメンバーそれぞれの役割、動き、見せ所や踏ん張りどころを気にしながら立ち回る余裕が、ようやく持てるようになりました。
 春に夜勤も終り、毎夜おこなわれる準備作業や子どもの練り(相撲練り)の稽古にも、今年はよく顔を出すことができ、自ずと思い入れも強くなるというもの。でも秘かながらも、それ以上の想いを持って、この本番に臨んだことがひとつあります。他愛のないことと笑われそうですが、ほぼ一年間、髪を伸ばし続けてみたのです。



 きっかけは網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)。網野さんはこの本の終盤で、中世の宇和郡の海域のことに触れています。僕たちの住む、まさにこのあたりのことです。ドキッとしました。
 それから藤原純友のこと、主に瀬戸内海の海賊のこと、相撲の歴史、隼人族のことなどを勉強していくにつれ、このあたりは決して陸の孤島と揶揄されるようなものではなく、丸い地球へ海に開いていたのであって、この秋祭りも、海からやってきた人たちの祀りに由来するのだろうと、そう思えてきました。
 祭りが続くのは大切ですが、例えば体裁を維持することや、形式を不作為に踏襲するというのは、これは保存活動の類であって、それでは記録物や歴史証文と相違なくなってしまう。この祭りはそうではなくて、欣然と生き残った祭りであると信じてきたから、それが石垣の段々畑の景観とか言語とか、立地条件や地名など、地域にまつわる様々なものに通じるというような、何か初源的なものが、この秋祭りに読み取れるのではないかと思っていました。白川静さんが『孔子伝』(中公文庫)で語っているような伝統、と言うとちょっと大げさかも分かりませんが、2年前くらいから、それが何となく見えてきた。



 ところがこれは、極めてマイノリティな新説だと思います。皮肉っぽく言えば、集落中でこれだけ大切にされ、愛される秋祭りについて、他所からやってきたポッと出の、とかく頭でっかちに見られがちな僕のような人間が、こういう意見を述べればシラケるというもの。もしくは、もっと悪いことが起きるかもしれず、それはさすがに望みません。
 そこで思いついたのです、自分の髪を伸ばそうと。牛鬼の担き手は黒足袋にさらし1枚、一人でその気分を味わうだけでも十分楽しいですが、その姿が本番当日にどんな存在感を持ち得るのか、一人演出で勝手よく実験してみよう、と思い立ったわけです。海からやってきた古の人々は、長い髪を一つ縛りにした、そんな出で立ちだったのではないか、そう思えてならなかったから。



 これまで何度か、髪を伸ばそうと思ったことはありました。そのたびに、中途半端な長さのときに嫌になって、バッサリ切り落してきました。どちらかと言えば短髪、坊主頭のことも多かったので、長い髪の扱いもよく分かりません。子どもたちには「ちょんまげ」とからかわれたり、自分でも似合わないなぁと思いつめたり。それでも秋祭りまで、と期限を決めたのだから、我慢々々。
 お洒落でやっているのだと勘違いされたかもしれません。きっと評判も悪かっただろうと思いますが、本番が近付いて、一本で結えるようになってくると、「コイツ、すぐに時代劇に雇われるでよ」と、ご機嫌なジイやんが出てきたり、本番中も、あ、一眼レフ向けられてるな、と感じることがよくありました。祭りが済んで、すぐバッサリと髪を落としましたが、「どうしちゃったんですか!?」と、わざわざ車を降りて駆け寄ってきた人もありました。可笑しいなぁ。



 一方、(わ)は今年も、ごるぽっこ式にお出迎えをおこないました。今回もかんまん部屋で、ダッチ―オーブンで焼くピザを中心にした温かメニューでおもてなし。
 これで2年目ですが、前年よりもお客さんは増え、中には、御神燈代わりに貼り付けた『ごるぽっこ』の看板を見て立ち寄ってくれた人がありました。僕たちにとっては大変喜ばしいことです。ゆったり過ごしていってくれたようで、なお嬉しい。
 言ってみれば、これは僕たちなりの祭りごっこ。でもごっこ遊びというのは、なかなか油断ならないもの。このごるぽっこ式お出迎えが、そんな可能性を感じさせるところまで面白くなったら、いいですね。





 どんなものであれ、ある集団に行き詰まりを意識せざるを得ない雰囲気が漂ったとき、そのときには、伝統に立ち返ってみることが、やはり大切ではないでしょうか。この地域の「伝統」とは何か、ということまではとても言えませんが、僕たちは決して、海に背を向けてはいけない、そういう気がします。そうやって片田舎の窮地へ、自分たちを追い込むことはないのです。
 思い立てば、僕たちはどこへでも歩いていける。それもいいけれど、さらに手を動かし、知恵をつけ、想像力を育めば、遠方の友人とも、そればかりでなく、過去や未来とさえ通信できる。さあ、舟を作れ。帆を立て艪を押し、潮に向かえば、ほら、権現さまが山の上からこちらを見てる。




(ゆ)
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