明浜(あけはま)という愛媛県南西部の海端の町に敬愛する人々がいる。農業にひたむきで、寄り合っては互いに罵りあい、日本人だろうと外国人だろうと、彼らにとっては異文化に違いない都会の若者だって楽々と受け入れる、おおらかな人間たちである。その中でもとりわけ際立つジイやんに「使い勝手のいい男でいろよ」とよく言われた。
彼もかつてそう言い諭されたのだろうか。さらに「お前を使い殺す」と豪語するこのジイやんに、あらゆるところに連れまわされた。僕も僕に出来ることは包み隠さず、使ってもらえるよう心掛けた。すると不思議と身の回りに面白いことが次々に起こった。
以来大事にしている言葉である。僕もいつか使うかもしれない。
僕が無茶々園(むちゃちゃえん)を知ったのは、シャプラニール=市民による海外協力の会へのインターンシップで、三ヶ月の海外研修を経た後の就職活動の際である。農村開発に取り組むNGOも視野に入れていたが、無茶々園を先に知った。
その当時公開されていた文章などによれば、無茶々園では「日本の農業を守れ!」とは、しばらく前から言わなくなったとのこと。もはや農家が生活に困ることによって、そのために国家の基盤が不安定になるような農業問題は日本に存在しないと言う。それでも農業が人類や地球に求められるところがあり、守られていくべきものであるならば、それならば今後は「世界の地域文化と家族農業を守れ!」なのだと言う。そのためのしくみが『世界田舎同盟』構想。小躍りどころではなくなってしまった。
とは言えさすがに躊躇した。就職するとなれば、当然そこで生活を送ることになる。建築学の後藤春彦研究室に所属する頃からたびたび農山村の地域を訪問してきており、いつかそういう地域に住むこともあるやもと、ひそかに思ってはいたのだが。
しかしぐずぐずしていては、他の機をも逸する。ひとまず試しに訪ねてみることを決心し、松山から車を走らせ山を越え、峠を越え、リアス式海岸のくねくねした道からやっと辿り着くと、そこはのどかな、というよりひどい田舎だった。少々物悲しい雰囲気すら。そして山の方を見上げると、天まで到ろうかというほどの、遺跡のような石垣の段々畑。こんな風景からあのグローバルな言葉が生まれるのか。しかし本当にこんなところで暮らしていけるだろうか。興奮と前途への恐怖で、なぜか笑いが止まらなくなった。あのときの感覚は、まだしばらく忘れることが出来ないように思う。
実際は、明浜での生活や仕事は、先のジイやんらに叱られ罵られ続けながらも充実していた。それまで勉強してきたこと、考えてきたこと、温めていたことなども生きていた。活かされた。やがて憧れの「世界的いなか人」に到達出来るかもと期待した。
無茶々園を去るきっかけは突然現れた。2006年12月、当時東京で別の仕事をしていた連れ合いに、春から二年契約のインド行きの話が急浮上し一週間後には決まった。これまでと同様に離れて暮らそうか。しかし短時間ながらよく考えて、今は一緒に暮らすのが良いだろうと結論した。インド行きを決めた。
でもこのことを世話になってきたここの人たちにどう伝えたらよいのだろう。この悩みはあれこれして尽きなかった。しかし最後には、先立って出発する彼女が、直前に明浜に立ち寄ってくれたほんの三日のうちに、僕にも内緒で企画が進められていたお祝いと壮行の宴までが催された。この町らしく公民館で開いてもらったことも何よりの喜びだった。本当に、いい男、いい女の吹き溜りのような田舎である。
その後移り住んで一年近くが経つ。ここでの僕の役割りは主婦である。なるほど家事もなかなか大変だが、自分の裁量次第で時間を作れるし、また勤めのような場所の拘束もない。
そんな生活の中で、何するにもあまり抵抗がないためか、誰彼となく頼まれることがあり、気前よく引き受けてきている。「使い勝手がいい」と思われているならばなんとも愉快だ。
家族の充実は外のお付き合いと家のお付き合いによって得られるものと考えている。夫婦のうち、家に拠点を置く人のことを主婦と呼ぶとすれば、後者の責任を負っているのが主婦であろうと思う。家族としての可能性を開いていくのは主婦の効がむしろ大きい。主人は仕事を洗練するのに集中していい。大事な役割分担である。
だから主婦が元気なことで、その家庭内外は豊かになる。これは地域づくりや草の根開発の現場で、今まで幾度となく見聞きしてきたことである。そして今は、自分にも立ち返ることが出来る。自分で実験、勝手がいいことだ。貴重な刺激的な時間を、ここインド・コルカタで過ごしている。