2016,08,31, Wednesday
![]() この年の夏は、よく川で遊んだなぁ。 もちろん、海辺の集落に暮らしているので、それよりもずっと、海で子どもたちを泳がす機会の方が多いわけではありますが。それにしても、川遊びのたびに思うものです、「ああ、なんて楽なんだろう」と。 日かげの確保も、脱ぎ捨てた水着や道具の後処理も、体にまとわりついたいろいろなものを洗い流すのも、そして移動に至っても、海で遊ぶときにはこうはいかない。「助かるなぁ」というだけでなくて、そのありがたみによって、ちょっと考えさせられるところもあります。 山の露が染み渡り、溜まって沢ができて川となって流れて、人間生活のいろんなものを取り込んで、やっと海へとたどり着くという物語は、思いめぐらせてみるととてつもなく壮大で、僕は頭がクラクラしてきます。 ![]() 海というのは、その意味でもスケールが大きい。海村暮らしを始めてもう幾年にもなりますが、この場所が決して陸の孤島ではなくて、海で世界に開かれていたのだと、素直な感覚で信じられます。海の偉大さを前に、人間ひとりの小ささに愕然とする一方で、逆にそれぞれが放漫になってしまうのも、いたし方ないのかもしれません。 例えば、いわゆる『希釈・拡散』。「海に捨てれば薄められる」みたいな、かつての排水処理の基本的な考え方は、暮らしや生産の考え方にすっかり染み憑いてしまっているようにも思えます。その根本には、都市農村関係の問題が潜んでいることに、実感も持てるようになってきました。それが反省すべき岐路にあるか、あるいは今後、危機的な状況を作り出す見通しであるならば、そのときには、原点の上流域で、沢を守る山の暮らしには、それだけで価値があるんだろうなぁ。 すっかり安心して潜ったり飛び跳ねたりしている子どもたちを眺めながら、そんなことを考えていました。 この夏、特に印象的だったのは、徳島県佐那河内村、嵯峨地区にある大変珍しい河川の遊泳場。友人を訪ねた際に連れていってもらったのですが、ここは地元小中学校のPTAで夏場の監視活動がおこなわれ、維持管理には児童生徒も加わっているそうです。それを聞いただけでも感激してしまいます。 また、自宅から車で一時間程度で行ける成川渓谷には、こういった自然環境や動植物の生態に詳しい友人や、たねっこ時代のもっと小さな頃も知っている子どもたちも一緒であったので、感慨深いものがありました。 ![]() 川のこの流れに生産性なんて、なーんもない。だからこそ、流れてる。それがいい。どころか、ああ、神さまか、なんてことがふと頭をよぎり、眼球でガラス隊を通り過ぎたような気がしたのは、あれ、錯覚でしょうか。 (ゆ) |
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