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水俣病に出会う人たち ~僕にとって編


 水俣に行くにあたって、付け焼刃でも何か事前に勉強しておきたいと手に取ったのは、原田正純さんが著した『水俣病』(岩波書店)でした。
 患者の症状が進行していく様子に、胸が苦しくなる。「何とかできないものか」、ほんの数ページの記述を読み切るあいだに、何度も本を閉じてしまう。そして、まだ〝原因〟不明とされていた時期の、この病気の置かれている状況が、風力発電の問題とよく似ていて、胸騒ぎがする。多分、傷つく人と傷つかない人が、はっきり分かれていくのでしょう。それは健康被害とは別の次元の話です。


慰霊碑とともに設置されている英訳プレート


 水俣の景色は、僕たちがいま住んでいる明浜によく似ていました。リアス式海岸、内海になっている静かな水面の先に重なる陸地。ここよりも起伏はなだらかで、水が豊富な様子に惚れ惚れとする。こんなところで水俣病事件が起きたんだなぁ。
 風景はガラリと変わってしまう。それは、どう取り返せるのか分からない、びっくりするような事態だと思う。「いまの海はきれいになったけど、子どもの頃の、あの色とは全然違う」、村上文世さんが言っていたなぁ。

 宿泊させてもらった相思社から、講習会場の公民館までの途中に、有名な百閒排水口があります。1956年5月に水俣病が公式確認され、水俣湾周辺に患者が次々に発生したことを受け、チッソは1958年に水俣川河口へ排水ルートを変更します。しかしそのために、患者発生が水俣川河口付近から不知火海沿岸に広がった。その事態を問題視した当時の通産省は、水俣川への排水を中止するよう指導し、チッソは再び排水を百間に戻した。国の責任は、この指導をした1959年からのことなのだそうです。


百閒排水口


 排水を止めなかった。止まらなかった。止めるのではなく、戻した、ということが・・・。
 帰りの車を走らせて、百閒の排水溝を通り過ぎるあいだは、涙が止まらなくなってしまった。講習の中で聞いた地名が標識に出てきたりするものだから、フェリー乗り場までの道のりは、ずっと水俣の景色が思い浮かんでいました。


講習の中での、グループセッションの一場面


 学生の頃と違って、いろんなものが吸収できるだけの自分でいるだろうか、なんて不安を抱えながらの出発でしたが、結果的に有意義な旅でした。何が吸収できたとも言えないし、それはよく分かってはいないけれど、自由にも囲いのようなものがあって、そのギリギリの際まで行ってみないことには、人間かどうかということも確かめられないのかもしれません。
 人類というような長い歴史の列に並んだところに、自分の立ち位置があるのだろうか考えたくなるようなときに、水俣が示唆してくれるものは大きいと思う。優しさや、「好きだ!」という感情や、寛容といった、温かささえも。そういう意味で、水俣病事件と出会う、という言い方を使ってみました。

 今度は(わ)や子どもたちも連れて、一緒に訪れてみたいものです。


(ゆ)
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