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カーリー
 子どもが生まれてから、役割分担へのこだわりから、外へ出ている時間が極端に少なくなり、街の様子を観察する時間帯も限られてきました。
 だけど絵を描くのは続けています。それは(う)や(わ)の様子をスケッチするのであったり、また、少し前に友人から声が掛かり、海外のNGOと『コルカタ塗り絵 A to Z』のようなものを作っているということで、その下絵描きとして参加することになり、毎日のように描いていました。

 この日喫茶店で、その友人との打ち合わせをはじめてすることになり、ひとまず提示されたAからZまで、26テーマの絵をすべて揃え、持っていきました。
 せっかく頑張って描いた絵だったのですが、半分以上がボツ、微修正で済むものもいくつかありましたが、ほとんど全部、描き直した方が良さそうです。残念。描き直し自体は珍しいことではないし、僕自身、自分の絵に自信があるというわけではないのでこれは構わないのですが、しかし気になったのはボツのその理由でした。言うには、「子どもには難しい」とのこと。

 彼女たちが事前に見せた絵をもとに話し合ったことを聞くと、例えば「ターバン」というテーマがあったならば、ターバンの絵を描いて欲しいようです。以前の話では、文化交流とか、異文化学習のためのものだと聞いていたので驚きました。
 僕ならば、ターバンなんて、あんなものをかぶっている人が、この街でどうして違和感なく見えるのか、考えながら絵を描きたい。また、ここの人たちが、一般的にこの恰好をしている人たちをどのように思っているのか、そういうものを絵に込めたい。無論、色を加えるのはターバンだけでいい。それは授業の目的や、色をつける子どもの個性だから。しかし色を加えていく間に、僕くらいにはコルカタを好きになってもらいたい。しかも、コルカタっ子が見れば、「なるほど」「ああ、あるある」と思ってくれるようなものでなければしょうがない。外国人である僕が、この絵を描く意味を考えて、そう思っていました。
 でもそういうのは、このプロジェクトには込めるべきではないと言います。

(友人のM):「この本は、基本的には海外の、コルカタのことを何も知らない子どものためのものなの」
(ゆ):「うーん」(「だからこそ、ちゃんと伝えるべきなのではないかと思うんだけどなぁ」)
(M):「よく考えて。ほとんどの人はクリエイティブではなく、箱の中に収まっているのが好きなのよ」
(ゆ):「うーん」(「こんなこと言ったら、元も子もなく、このプロジェクトの意味自体を失うのではないだろうか」)

 さらに、コルカタにある有名な、白い建物を大きく描いてほしいと言うので、

(ゆ):「でもこの建物白いけど、あんたならどうやって塗る?」
(M):「でもそうすべきなのよ。この本はまず、コルカタを『教える』ためのもので、色を塗るのはその次のことよ」

 と、ここまで会話を続けて、僕が想定しているものと全く違うものを作りたいのだと気づきました。あるいは、僕の「暴走」を何としても止めようとしているのかもしれません。続けて、

(ゆ):「一人か二人、発想豊かな子がいるだけでいいと思うんだ。そういう子は、クラスのみんなに影響し得るよ。僕もそういう風に、影響されて、他人の真似ばっかしてきたのだし。だから、可能性は、高いことが大切で、低くするのはもったいないよね。ほら、B君(共通に知っている男の子)みたいな子がいると、上手くいくと思うんだけど」
(M):「B君! 彼はシャンティニケタンに行くべきだわ」

 僕は自分の思い通りにことを進めたいわけではなく、いいものを作るための会話を楽しみたいというつもりだったのですが、もはや生産的な議論も期待できないので、この本に関して話すのはやめにしました。
 普段の様子から、本当の堅物はNGOの人であって、間に入っている友人と話すことでもないのかもしれません。エンパワメント(empowerment)とかオルタナティブ(alternative)と言ったところで、NGOなんてこんなもんか。帰るときはかなりしょんぼりした気持ちでした。うーん、残念。

 でも、いいこともありました。
 実はテーマの一つにカーリー(Kali)というのがあります。カーリーというのはヒンドゥー教の神様で、殺戮と恐怖の女神などと言われます。シヴァ神を踏みつけて、舌を出すシーンがよく描かれます。ベンガル地方では信仰する人が多い神様で、描き手としては、きわどいテーマです。しかもこの女神は、姿がおどろおどろしい。人間の生首をネックレスにし、血が滴る。裸です。海外の子どもにどう見せたら、楽しく色を塗ってくれるだろうか。難しい。
 一生懸命考えて、構図も大胆に替え、一部抽象化して描きあげた絵を見て、友人は最初、何の絵だか分からなかったようです。でもそばで見ていたコルカタの子どもは、「ああ、カーリーじゃない」とすぐ分かったようでした。また、打ち合わせのとき、ちょうどこのページを開いているところに店員が来て見ると、「言うべき言葉が見つからない」と賞賛してくれました。このことは、本当に嬉しい。
 僕が作りたいと思っていたことは、少しは出来ていたようです。ただそれが、今回の本には合わなかった。そういうよくあることが、僕の身にも起きました。


(ゆ)
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