居心地のよさのからくり |
○「DEEP
INSIDE」(2009年3月)掲載
○ワイルドインベスターズ 発行 |
うえはらゆうき |
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これまで、コルカタという街での生活を通して見るインドとは、『巨大なひきこもり』ではないかという仮説を持って過ごしてきました。今回は最後のレポートになるので、ここら辺のことについて書いてみたいと思います。
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コルカタの街なかを歩いていると妙な心地よさがあり、ここは世界で一番平等な街なのではないかと思うことがあります。カースト問題なども抱えているインドにおいて、これは意外な意見に思われるかも知れませんが、この平等は機会や結果の平等ではなく(これらの平等には大変な課題を抱えていますが)、社会的承認の平等とでも言いましょうか。なんだか、誰も無視されていないなぁという気がしてくるのです。
都内で最もホームレスの多い場所のひとつに都立戸山公園がありますが、ここにホームレスがたくさん住んでいるのは、夜中にも水が止まらないことが大きな理由の一つです。これはホームレスが街じゅうに溢れないようにする東京都の都市政策だとも言われています。これなどは“隠す”例の典型と言えると思うのですが、こういった“隠す”価値観が、コルカタでは優位に置かれることがないのでしょう。ボロ着を身につけた貧しい宿無しの人が、街なかでサリー姿の女性と並んでいても平気です。中にまで入ってくることこそありませんが、デパートの前にいても誰も人前から隠れようともしませんし、追い払われるところも見たことがありません。
我が家の近所では、障害者(聾唖者)が信号で交通整理を始めることがあります。コミュニティに依頼されているのか自発的なものなのか分かりませんが、これが済むと健常者に混じってお茶をすすり、気後れすることもなくジェスチャーで会話をしています。こんな様子は、素直にいいなぁと思います。また、足を悪くしてびっこをひいているおじさんの真似をして、その横でニヤニヤと話しかけながらよっちよっちと歩く子どもは、悪いことをしたという風もなく、また叱る人もいません。こんなことは、誰にとってもどうでもよいことなのです。当の足の悪いおじさんも、「じゃっかぁしい」といった態度でしかなく、それ以上悔しい思いをしているようには見えません。 |

店の玄関に入り込んだ野良犬も
追い出されない |
こういうことが成立する背景を考えてみると、コルカタの人々が無理をしない人たちであることと関連があるように思います。無理をしない、ということは、許容範囲がはっきりしている、ということでもあるかもしれませんが、可能性を徐々にでも開拓していくという発想よりも、許容範囲の限界をまず設定してしまうようです。
家政婦や使用人のある家が多いというのが、よい例でしょう。家政婦や使用人といっても贅沢の象徴というわけではなく、中産階級以上のであれば普通のことです。雇われた人も、変にヘコヘコするような関係ではありません。「掃除」「洗濯」「料理補助」というように仕事の内容や時間帯を区切って、近所のおばちゃんが家事の手伝いに来るといった具合のものもよくあります。ドアベルが鳴って、突然入ってきた女性がそのまま浴場へ行き、洗濯物をベランダに干し終わると「帰るよ」と一言して出て行ってしまう。そしてその女性が仕事をしている間、家族は彼女に特に気を使うでもなく、みんなでお茶をしていたりします。だからと言って、この家の奥さんは「楽をしている」とは決して思いもしないでしょう。コルカタの人々にしてみれば、これはこれで誰もが納得のいくことなのです。
外に出てもこんな状況がよく見受けられるので、一苦労を感じることもあります。例えば、お役所で手続きの書類にパスポートのコピーが必要であるとすれば、パスポートそのものを持参しても取り合ってくれません。出直しとなり、外のコピー屋さんまで行かなければなりません。役所以外にも、一つのサービスとしていろんなものがそろっているという場合がほとんどなく、また、自分の仕事の責任範囲を越えて情報共有をするといったことも見られません。利用者はいちいち手間がかかります。
しかしこれが、利用者に有利に働くこともあります。腕のよい仕立て屋を知っていれば、生地を持ち込んでデザインを細かに指定して作ってもらうことも出来ます。また、サイズがぴったりのお気に入りの服があれば、その複製もすぐ作ってくれます。
複製が作れると言うと、「それではブランドも何もないじゃないか」という疑問が沸いてこないでもありませんが、しかし各店がオリジナルの商品を持っているという状況は、そもそも現実的ではありません。生地屋、仕立て屋、服屋がそれぞれ分かれていて、しかも街に数え切れないほどたくさんあるのです。 |

彼女は住み込みの使用人 |
これらの話に共通するのは、いろんな役割があるということが前提となっている、ということではないでしょうか。つまりそれぞれの都合やいろんな条件を受け入れることが出来る人々だということです。これが、コルカタの“隠さない”でもよい雰囲気に通じるように思うのです。こう言うと実に器用な人々のようですが、正反対。個人レベルで見ると、自分の許容範囲をはみ出さない、「だって、そういうもんでしょ」と言って融通の利かない人たちです(ディープインサイド、2008年3月号参照)。
そんな人たちが集まって、大きく干渉し合うわけでもなく暮らしている。そこで『巨大なひきこもり』と僕は言ってみるわけですが、これは自国のことばかり考える『自閉』とは趣が異なるもので、外国のことなどにはむしろ関心が高く、正義感も強い人々ではないかと思います。でも見たもの聞いたものは、実にインド人らしく、インド的に解釈していく、ということです。実際の会話において、「インドは・・・」「インドでは・・・」といった表現はたびたび聞くところですが、社会にあるいろんな現象に“インド”を発見し、インドの優位性や複雑さを再認識するのでしょう。あるいは、自国すら見ない人も多いかもしれませんが、矛盾しているようですが、しかしこれがコルカタの、変な居心地のよさのからくりだと思うにいたりました。存在していることは咎められず、その存在価値が問われることもないのですから、圧力を感じることもないわけです。
市場へ行ってみても、同じものを置いている商店が本当にたくさん並んでいます。店主がそれ以上の商売を望まないし、またその需要もないのでしょう。在庫切れの商品があれば、そういった同業の商店から租借して販売したりします。また、全部手作業の道路工事現場は、自分の仕事が回ってくるまで待っている人ばかり。いつ終わるのかも分かりませんが、毎年少しずつ進められているようです。それで十分、まあいいじゃないかと思えてきます。逆にそう思えないと、大変ストレスの溜まる街です。
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いつも買い物に行く
市場(バザール)にて

乾季になると、
街のあちこちで工事が始まる
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いろんな役割があるということが前提となった、いろんな条件を受け入れることが出来る人々が暮らす街、とはいえ、生活格差や空気汚染、渋滞、人々の諍いも、何でもどんどん目に飛び込んできますから、問題と映らないこともありません。というより、基本的には問題だらけです。だから国や行政をただ批判するような人は外国人のみならずコルカタの人々の中にも多くあります(ディープインサイド、2008年9月号・11月号参照)。といっても愚痴の範疇をなかなか越えないのは、前回のレポートでもその一面をお伝えしましたように、問題だらけが矛盾したまま成立しているのがインドの常態だからでしょうか(ディープインサイド、2009年1月号参照)。実は一人ひとりが極端に主張を強めると、この問題だらけの常態が、たちまち緊急事態に陥ってしまう可能性があるということが、文化的遺伝子の中に組み込まれてよく知っているからこそ、一人ひとりも自分の許容範囲をなかなかはみ出そうとしないのかも知れませんね。そんな例をもう一つあげるとすれば、主婦たち。
ベンガルの人々の間では「家」が重んじられるため、女性は大学をきちんと卒業した高学歴の人でも、結婚すると家族の世話ばかりになってしまいがちです。大学では授業の多くが英語でおこなわれるため確かな英語力も有しています。もちろん英語力だけでなく、知性があり、気持ちも開けている人もいます。野心のない代わりに、誰のことを恨むでもなくのほほんとしているので、それはそれでよいのかもしれませんが、やはりそんな主婦たちと出会うと「もったいないな」と思ってしまいます。しかしもったいないかどうかは、きわめて当人たち個人の裁量に任されているところであり、社会からの要求はこれからもなさそうです。
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僕が南アジアに関わるようになった2004年の頃には、すでにインドのニュースなどが日本語でも手に入るようになっていました。現在はさらに充実してきています。そこでこのレポートでは、僕が実際に体験している生活から見える情景をお伝えするよう心がけてきました。それらのメディア情報の背景にある、人々の感性に僕たち日本人とは大きな違いがあるように思えたからです。少しでも、お役に立ったでしょうか。
なお、今回のレポートで『ひきこもり』という言葉の使用が適切であったかどうか、自分でも分かりません。ですが他に言葉を知らないので、あえて利用しました。
実は以前、3週間ほどに過ぎませんが、引きこもり、ニートと呼ばれる人々とある農場で共同生活を送ったことがあります。僕とほとんど年齢の変わらない人が多かったです。意外にもみんな結構一生懸命で、だけど一度自分で決めたこと、思い込んだことを何とかやり通そうとするので、臨機応変に立ち回ることが出来ません。オーバーワークになっていることにも気づかず、やりすぎて次の日には体が動かなくなってしまうこともあります。ですがこれがなかなか、付き合っていて悪い気のしない連中で、とても楽しい生活でした。
コルカタで過ごしながら、彼らのことを思い出すことがよくありました。というわけで、『ひきこもり』という言葉は、決してネガティブな意味合いで使ったわけではなく、むしろポジティブな気持ちを含んでいます。最後に補足させていただきます。
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