コルカタ人のわからず屋
○「DEEP INSIDE」(2008年3月)掲載
ワイルドインベスターズ 発行
うえはらゆうき


 あまり一概のこととして言うことは出来ないものかもしれませんが、コルカタの人々と過ごしていると、戸惑うことがよくあります。どういうことかと言うと、何と言うか、自分のやり方をなかなか曲げません。
 「だって、そういうもんでしょ」という感じで、仕事の上で効率的であっても、後々の分析のために必要なひと手間であっても、なかなか受け入れてくれない。その価値観に納得がいくかどうかよりも、まず自分で思いついたことを優先してしまいます。上司や権力者に指示、命令された場合は別でしょうけれども。
 ですがこの頃はそれにも慣れてきたように思います。というより、見方を変えることによって、この「だって、そういうもんでしょ」がむしろ好きになってきました。そのきっかけは、コルカタ最大のお祭り『ドゥルガー・プージャ』(ヒンドゥー教の神であるドゥルガーの、アスラ王マヒシャ討伐を祝うもの)をここで過ごしてのことでした。


 右の写真(上)は、ドゥルガー・プージャ期間中に出店される屋台ブースに掲げられた看板です。香りのスプレーを使っている女性は手が八本、神話に出てくるインドの神々をモチーフにしているようですね。
 このように、神様など信仰の対象をポップアートのようなかたちで利用しようとする発想が、日本人にはまず難しいのではないかと思います。例えばお茶漬けの広告に断食を終えた菩薩を利用したり、清涼飲料水のコマーシャルに喉の渇いたキリストを利用することは、とても出来ません。全くもって禁忌なる行為です。
 また、街の到るところにやぐらが建ちます。これらはお祭りのために地区共同体が建設したもので、その中にはそれぞれドゥルガー神の像を祀っています。アラブの宮殿や大恐竜、ヒンドゥー教寺院や古代遺跡などをモチーフにしていたり、光をうまく利用した、美術性に富んだものなど、本当に様々なかたちのやぐらばかりで、街中がテーマパークのようになります。昼も夜も、本当に華やかです。
 この様子を撮った画像を見て、「ずいぶん近代的なお祭りなんだね」とがっかりしてしまった知人もありましたが、実際にここで過ごしてみると、そんな気は全く起こりません。それは何故でしょうか。






 僕が思うには、人々のドゥルガー神への思い、ドゥルガー・プージャが大好きで、とてもありがたくて仕方がないという、コルカタの人々の気持ちが溢れ、伝わってくるからではないかと思います。「だって、ドゥルガー様はドゥルガー様じゃないか。ちゃんと祀っている」という強い信念が感じられてならないのです。
 ドゥルガーの勝利を祝うお祭りですから、派手になることはよいことなのでしょう。そのために近代的な広告技術や装飾を取り入れてはいても、しかしお祭り自体が近代化しているわけではないようです。
 近代化の中に溶け込んでしまうことなく、それぞれの要素が重なり合うようにして、きちんと存在し続ける在りようが、ドゥルガー・プージャに表れていたように思います。重なり合う要素は新しいものと旧いものであったり、技術と信仰であったり、様々な可能性があるのだと思います。インドを形容する言葉としてよく用いられる「多様性の中の統一」は、こんなところにも表れているものかとも思います。

 そのような実感は、街の景観への表れからも得ることが出来ます。
 前回のレポートでもお伝えしましたが、コルカタにはイギリス植民領時代からの、築100年以上にもなる建物が多く残っています。黒ずんで、モルタルがはがれ落ちて外壁の煉瓦が見えてしまっているようなものを、繁華街の大通りに面した場所にすら目にすることが出来ます。そして面白いのは、こんな建物に、現代的なデザインの大きな広告看板が、どでん、と乗っかっています。
 黒ずんだ建物と、つるつるぴかぴかの綺麗な大看板。この組み合わせ一つを取り上げれば、これは明らかに不釣り合い、ミスマッチです。しかし単体はミスマッチでも、街中に溢れていると、何やら妙な統一感と独特の活気、華やかさがあり、あわや作品群のようにも思えてきます。さながら、街全体がポップアートミュージアムのようです。


 こんな特徴が成り立ち得るのも、経済発展の遅れを象徴するものと言えるかもしれません。コルカタ市のある西ベンガル州は1960年代は最も豊かな州の1つでしたが、2005-06年度の一人当たりの州GDPを見ると、インド国内で18位にまでなっています(現在インド共和国には、28の州と7つの連邦直轄領が存在)。道路や電気、上下水道の整備も進んでいないので、毎年起こる洪水の中を無理して歩むのは、いろんな意味で危険を伴います。
 そんな状況でも、湿地帯の一部を埋め立てた新都市開発がおこなわれ、そこにIT産業の集積が見られるのは、インドの経済発展の目覚ましいことをやはり表しているのでしょう。インド国内の都市であれば、どこでも可能性は一応あるということだと思います。一方、その湿地帯の対岸には集められたゴミが毎日数百トンも積み上げられ、大きな大きな丘を2つも形成しています。丘の上で利用できるゴミを集める人々の姿を、遠くから見ることが出来ます。いつでも強い影は、一番明るいところに隣り合っているものです。
 ともあれそれは、コルカタのほんの一部のこと。先に述べた状況こそがコルカタだと思います。この景観の下で、金持ちも中産階層も貧しい人も、同じ場を共有していても違和感がありません。


 異なるいくつかの要素が溶け合ってしまうことなく、重なり合ってそのままきちんと存在している。そんな解釈を持って捉えなおしてみると、僕らと同じような服装をした人や、携帯でしゃべりながら歩いていたり、映画の話で盛り上がったとしても、どうやらそもそも価値観の在りようは異なるのではないかしら、と思えてきます。
 自分に悲観的になるのもなんですが、利便性が進む中で、日々大切にしたいと願う何ものかを蔑ろにしてきているように思います。例えばパソコンばかり使っていると、電話で声を聴くよりメールでの連絡の方が心地よく感じてしまうなど、パソコン的な発想しか出来なくなってくる。“近代人”“現代人”という言葉がしっくりくるように、それは、一人ひとりが持っているはずの自我が、社会の近代性、現代性そのものに溶け込んでしまったのではないかと思います。近代化の中で自我が溶けてしまっている。
 ドゥルガー・プージャを目の当たりにした後、そんな自分を省みながら過ごしていると、コルカタの人々の“わからず屋”の性格に、むしろ好感を持てるようになってきました。よく観察し、耳をすまし、彼らが大事にしている要素を取り出してみれば、「ああ、そういうことか」と共感でき、尊重すべきもののように思えてきてしまうのです。



 とは言え、迷惑することもあります。例えば路上では、大きいものの方が強く、優先されてしまってやっかいです。
 街の市場沿い、地べたでは野菜を並べる人々が並び、歩行者も行き交うごちゃごちゃとした道にタクシーが入り込んできたとします。リクシャ(江戸の人力車を思い浮かべてください)が溜まっていれば、「おい! リクシャ! どけ!」と運転手は窓から怒鳴ります。こんなところにお客さんも乗せずに入り込んでくるタクシーが悪いように思えるのですが、リクシャはのっそのっそと移動し始めます。
 最強はバスです。僕もあわや轢かれそうになることがたびたびありますが、バスが曲がってきた時には人々自身が避けて、バスの行くスペースを作ります。お目当てのバスに乗り損ねた老人が、引きずられるように入り口の取っ手にしがみついている場面も、まま目にします。いつものところで待っていたにも関わらず、バスの動きの方が優先されて、取り立てて文句を言う人も無いのです。


 逆にこんな場面もあります。
 僕は目の前で倒れる人に何回か遭遇したことがあるのですが、そのうちの一人は事故に巻き込まれて血まみれでした。
 そんなときには周囲の男たちが怖れも抱かず即座に駆けつけ、皆で抱えて、まず看護のしやすい道の脇へ移動させます。血まみれの人はタクシーに乗せ込み、おそらく病院へ向かったのでしょう。その場に居合わせた数人が同乗していきました。
 そんな姿には素直に感心してしまいます。僕などは衝撃で立ちつくしてしまい、何もすることが出来ません。情けないことです。






 これらの例は、環境次第でおのずと身についてくる“慣れ”のようにも感じられますが、そんなに単純なものではないように思うのです。国の経済発展の中でどんな風に変わり、あるいは変わらないのか、それはまだ分かりませんが、コルカタの人々の「だって、そういうもんでしょ」を集めるのは、いまのところ、なかなかに面白い。


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