公益性について
○「DEEP INSIDE」(2008年11月)掲載
ワイルドインベスターズ  発行

うえはらゆうき


 エンパワーメント(「empowerment」)という言葉をご存知でしょうか。開発(いわゆる途上国開発)や貧困問題に携わる人々がよく使う言葉として僕は認識していますが、これは、1995年の国連世界開発サミット・コペンハーゲン宣言の中で引用されたことに由来するそうです。
 そしてエンパワーメントという言葉そのものの意味は、ノーベル経済学賞のアマルティア・センから引く人が多いのではないでしょうか。つまり、貧困とは自由の欠如であり、その克服とは、潜在能力を開化させていくこと、といった具合でしょうか。
 潜在能力の開化には、社会への働きかけなどといった外へのまなざしと、自己の内へのまなざしと両方あるかもしれません。例えば成人識字教育があげられます。識字とは「字を読み書きできること」といったくらいの意味ですが、その能力をもって、自分の置かれた状況への認識を深め、改善・向上させていくことに貢献します。また、学校教育を受けてすでに読み書きができるようになっている自分の子どもへの後ろめたさのようなものから開放され、自信を持ってより前向きに生きることができるようになるという場合もあります。潜在能力の開化とは、こういった複合的な条件を自ら解きほぐしていく物語です。どういった立場であれ、エンパワーメントのプロセスに関わっていく中でこういった報告を聞くにつれ、自分も一生懸命生きようと思うものです。




圧縮機で葉っぱの皿を作り、
副収入とする


 しかしながらインドでは、このようなノスタルジックな考えはあまり通用しません。貧困の現場に近すぎてそんなことを言っている余裕がない、というわけでもなさそうです。どうやらインドの人々の"公益性"に対する感覚によるところが大きいのではないかと思っています。今回はこのあたりの件について考えたことをお伝えしようと思います。

 僕はベンガル語を習っているのですが、ある回の授業で、「private」を意味する"ベショルカリ"の反対語として、「government」を意味する"ショルカリ"という単語を教えられて時には苦笑してしまいました。
 最近であれば、日本でも「private」="私"の反対語ならば、「public」="公"か「common」="共"か迷うところでしょう。とりわけ「government」="行政"(あるいは"政府")という訳の選択肢など全く浮かびませんでしたが、教えてくれた人のこのためらいのなさに、少々驚きました。僭越ながら僕の感覚を基準にすると、「public」とか「common」に関わる感覚は、少なくともコルカタの人々は鈍いのかもしれません。
 また、さきほどの「empowerment」という言葉に再び戻ると、ノスタルジックな考えこそありませんが、市民権を正式に与えること、法的な根拠を与えること、という発想に結びつくようです。しかし、それ以上の思い入れには及びません。個々人に関心がないかといえばそうでもなく、「poor people」「backward」といった、僕ならば使用をためらう単語はよく耳にします。国や地域、人々の生活がよりよくなっていくべきだという考えは、むしろはっきり意識されているのではないかと思います。ですが同時に、こういった領域は仕組みとして成立すべきであり、その仕組みは政府によってきちんと担保されるべきという意識が高いようなのです。
 この感覚は貧困層へのまなざしだけではありません。昨年、コルカタで大規模な火事があり、ビルは数日間燃えつづけ、毎日テレビで放送されていました。すると、いつまでも消えない火のニュースに「(西ベンガル州の)政権は一体何をしているの!」と言った人がいました。このとき政権に一体何が出来たのか、未だによく分かりませんが、社会問題などは政府が解決するべきものなのです。
 好くも悪くも、信頼されるべきものとしての行政・政府の存在は非常に大きいような気もします。確かに何であれ、"政府公認"の重みや大きさは、日々よく感じられることです。


 しかし僕からすると、「government」が担ってしまうことで逆に誰もアクセスできなくなり、奇妙に巨大なブラックボックスからのアウトプットをただ待つばかりといった不甲斐なさも感じます。多くの人が指摘するところですが、インドの行政・政府の実態は、ひどいものがあります。こんなエピソードがあります。
 黒澤明監督の作品に『生きる』という映画があります。実は2008年8月にコルカタで開催された、今年度の日本映画祭でこのたび上映されました。
 『生きる』は市役所の市民課に勤める市民課長が主人公です。面倒なことは何もしないのが得策、掟の役所で、30年間問題なく勤めてきた市民課長が自分が末期癌であることを知ります。最期までの時間は少ないというのに、何をしたらよいのか分からず路頭に迷う主人公は、「やる気を出せば」と、最後は自分の仕事に渾身に、文字通りなりふり構わず取り組みます。この主人公が死ぬ前後における、この市民課長とその周りの人々、そしてたらい回しにされつづけた主婦グループとの関わりが描かれています。まさに"生きる"とは何か、をテーマとしたものです。
 とても面白い映画でした。役者もみんなセクシーで、悲劇的な喜劇、会場は大盛上がりでした。しかし隣で一緒に観ていた友人は、「現代のインドの役所が、何故1950年代の日本と一緒なの!」と観終わった後に憤慨しています。これには大笑いです。日本の役所がこの時代から、本質的にどれくら進化したかはおいておくとして、しかしインドでは笑えない事情があるものです。たらい回し、後回しの話はもちろん、地元のNGOには、5年前に助成が決まった案件なのに振込が未だになされない、なんていう話も聞かれます。日本の会計年度感覚からすると信じられない事態です。
 ですがこの助成金も、たとえ数年度またいでも、結局うやむやにされて支払われないという事態には陥らないようです。翌々年に決まったものが先に支払われるということもあるのだとか。その意味では強い信用があるようで、毎年資金繰りにあくせくしていても、「仕方がないことだよ」と当然のように納得しているのです。こんなことが、矛盾したまま成立している状況が、インドにはあります。しかしこの"矛盾したまま"成立しているというのが、なんともインドらしいと思います。




『生きる』のポスター


 例えばシングール問題。日本でも報道されていると思いますが、これはここ西ベンガル州においては、抗議行動が続いていたシングール地区からタタ・モーターズが撤退するということで、一旦の決着がついた形になりました。
 ことの発端は西ベンガル州政府が、タタの世界最安軽量自動車"ナノ"の組み立て工場建設プロジェクトのために、シングール地区の農民から420エーカーの土地を収用した2006年にさかのぼります。この収用は、実は英国植民地時代に制定された土地収用法によるもので、土地については州が個人の所有権に優先する権力を持っているということに、根拠が置かれています。この強制収用が不当であると、地元農民の一部と野党、学生などが抗議行動を起こしたわけです。
 この用地買収は合法であるという判決が下りましたが、今年5月頃から再度抗議行動が盛り上がり、現場は暴力沙汰にも発展し、建設は8月からストップしたままでした。この件については、新聞をよく読むコルカタの人々にとっても恰好の話題で、西ベンガル州の経済発展の布石として、この工場建設は成功させるべき、いや、このやり方はひどすぎる、農民の生活を保護すべきだと、議論していました。そんなこんなしているうちに、タタが撤退を決定しました。その後は逆に、工場建設賛成派による抗議も起こっています。




建設途中の"ナノ"工場(2008年5月)


 なぜこんなことになってしまったのか。一時はタタへの批判もありましたが、最終的には、問題の所在は州政府の補償が少なすぎた、補償の支払いが滞っている、州政府が工業化を急ぎ過ぎたために土地収用の手続きに不備があった、そこら辺に落ち着いたようです。ですがそもそも、この件については当初から、政府が全面的に担っていること自体がちんぷんかんぷんの矛盾だらけで、スムーズにいくはずはないのではないでしょうか。問題解決の枠組みもずっと変わりませんでした。タタが話し合いの場に参加できる枠組みと意志が、早い段階で形成されていれば成功したかもしれませんが、結局今のところ、良いところ無しの結果となってしまっています。工場建設の成功いかんによって西ベンガル州への投資の未来がかかっていると取り沙汰されていましたが、それ以前に、この領域が「government」が担うべきものとする常識が前提としてある以上、新しい動きは、いつでも基本的に問題を孕みつづけるのだろうと思います。
 シングールのことは歴史に残るかもしれませんが、大きな意味は持たないのではないでしょうか。この一連のことを調べてみて、そんな風に思います。今後、シングールの土地で農民が農業を再開するかどうかも分かりません。正式には既に州政府の土地となっていますし、ある程度建設が終わった工場の跡は、残骸としてしばらく、ずっと残っていくのでしょう。何度かこの土地の横を車で通り過ぎたことがあるので、その情景が思い浮かびます。こういったことが"矛盾したまま"放っておかれるのではないかと思います。
 

 


 「public」と「common」、つまり公益性に関わる手法が抜け落ちていて、"べき"論で埋まってしまったかのような既成概念があるように思います。人々にとっての"公益性"とは"べき"論ということです。これは行政・政府まかせというより、現代ではその責任の所在をここにしか求められないということでしょう。だから現実が伴わなかったり、遅々としていてもさほど気にならない。大いなる"楽観=あきらめ"主義とも呼べるかもしれません。時代の移り変わりと法整備を進める中で徐々に影響されてくるのだとは思いますが、どのように変化していくかは、今はよく分かりません。




西ベンガル州のある村を
訪問したときの様子。
村中総出で歓迎のダンス 


 今回は、いわば前回のレポートの続きで、別の観点から捉えてみようと試みました。前回、食事の様子を例に「インドの人々は自己完結しがちであり、周囲の環境とは隔たりがある」と書きましたが、それはこういう形でも表れるのではないかと思います。
 

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