アパートの我が家のドア向かいの部屋に住んでいるのは、おばあちゃん。年齢は80を大分過ぎているようですが、見た目は100歳を上回るような感じ。おばあちゃんのお茶目さというより、人間としての貫禄が刻み込まれた顔つきで、魔女、というより時折り化け物のように見えることもあります。独り身の彼女には使用人として働く女性が、19年も付き添っているのだそうで、彼女のことも、僕たちは大好きです。
(う)が生まれたことを伝えて、誰よりも一番最初に我が家を訪れてくれたのもこのおばあちゃん。お祝いに少し大きくなってから着られる服を買って、自分の部屋にも戻らずに、そのまま駆けつけてくれました。次の回には『ミシュティ』という名前をつけて、勝手に呼ぶようになりました。その後もちょくちょく遊びにきてくれます。(う)が生まれるずっと前からも、彼女からすればひよっこのような僕たちのことを何とは無しに気にかけてくれていたようで、会ったときに挨拶をすると、びっくりするような時間差で返事をしてくれます。そんなやりとりが可笑しくて、(わ)との話に出てきます。
おばあちゃんが昨日亡くなりました。今朝知らせを聞きました。
何をするにも失礼がないようにするために、何をどうしたらよいのか分からないので(わ)がまずベンガル人の友人に電話し、慌てて白い花束を買って帰ってくると、ちょうどアパートの門を、こちらの霊柩車のようなものでしょうか、おばあちゃんを載せた車が出発したところにすれ違いました。僕が買ってきたのと同じ花に包まれて、左足のでっかい親指だけが、荷台のガラス箱から見えました。まだ新聞紙に包まれていた白い花束を、さらに見えないように手提げの裏にして、見送る人々を顧みることができません。向かいの我が家に戻り、(わ)にいきさつを話すととたんに悲しくなった。
人が亡くなったとき、家に親族や知人友人が訪れ、遺体に花を添えるのだそうです。このとき、生まれたばかりの子やその母親は、赴かないのだそうです。
間に合わなかったけど、花を持って家に行ってみると、多くの訪問者は見送ったまま外にいるようで、数人しかいませんでした。このタイミングでここに居るということは、かなり親密な方々だろうと思います。「おばちゃんに」といったくらいのことを言って花を見せると、女性が「いま行ったところなのよ」と返します。花は写真立ての前に生けて添えられました。促されるままにソファーに、僕が自信なく座っていると、すぐ水と甘菓子が出されました。彼女はおばあちゃんの親族だそうで、食べて話すと、僕が少しベンガル語を話せることと、生まれて一ヶ月半になる子があることなどを、横で聞いていた方とも一緒に喜んでくれ、「来てくれてありがとう」と最後に言ってもらい、おいとましました。
ここでの生活は期間が決まっています。だから見たいものを自由に解釈して過ごせるものと思っていたし、そのように過ごしてきましたから、こんな体験をするとは思ってもみませんでした。
親族の女性は、「人が好きで、よく気にかける人だった」というようなことを言っていました。交わした言葉は、いま思えばついこの間、彼女がおしゃれ着で外の階段をよっこらよっこら降りていたところに僕がおつかいから帰ったところで、「『ミシュティ』はどう、元気?」と聞かれ、「はい。また見にきてください」と言ったのが最後でしょうか。頷いたのかどうなのか、階段をまた下りはじめ、管理人さんも使用人の女性も、待ち受けている車やその運転手など、多くの人に見守られながら堂々と降りていく姿よ。
ご冥福をお祈りいたします。
(ゆ)