この2ヶ月近く、実は査証(ビザ)に関する問題の渦中にあったのですが、それがやっと解消しました。
事の発端は5月中旬。インドに住む外国人として必要な手続きを進めているとき、インド政府直属の機関の高官に「インド国内に滞在するのに、このビザは不適切な疑いがある」と指摘されてしまったのです。何が問題なのか、最初は手がかりすらありませんでした。
それから今日までというもの、こんなものだろうか、と思い直すことがいくつかありました。
ひとつは、思い違いが執着を生むということ。
例えば預けていたお金への利子がとたんに低くなると、損をした気分になってしまう。またあるいは、それまで非課税だった収入が課税対象となってしまうと、その仕事を続けるのは不利なことだと思えてしまう。そもそも前者は得をしているのに変わりはないし、後者は儲けすぎていたとも考えれるのに。
資本というものをどう考えるかにもよりますが、一度手に入れたものは、なかなか手放せないものです。
次には、根拠がないということは不安であるということ。
もともと何のためにその人間が存在しているのかなんて、誰彼が干渉するものではありません。「邪なことなど毛頭考えていない!」と大声で誓える人こそ信頼できると、正しい人こそ強気であれと考えていましたが、ですが実際に逮捕や強制退去などの可能性が不自然に発生した場合などは、どうでしょう。
根拠なんて誰がつかさどるのかわかりませんが、屈辱も含めて至極不安になるもののようです。協力してくれるはずの仲間に対する怒りさえも。
そして、人間一人の力なんて、しょせん一人の力に過ぎないということ。
国家と個人、それぞれの建て前はやはり異なるのでしょうが、瞬間々々においては、国家的な責任を“担当者”が担っている場合が多々あります。すると極めて“個人”に近いその人があたふたしたり、ただただその人の怠け癖とも思えてしまう手続きの遅延に、きっとなすすべもありません。
いいかげんなもので総無責任状態となり、誰が当事者なのかも分かりません。より大きな権力にすがればよいのかもしれませんが、それでは一体、どんなもんでしょう。
お察しの通り、これらは全部僕自身に起きた思い過しです。
何だか落ち着かない日々でした。ですが僕の好いところ(と自分で思うこと)は、“人間とはこんなものだろうか”と思うことによって、より人間が好きになるところ。「だからこそ、みんなでまちづくりをしようじゃないか」なんて思ってしまいます。
ここでの生活がはじまってちょうど1年が終わる明日の夜中、コルカタを発ちます。と言ってもほんの少しの間、日本で過ごして戻ってきます。問題が日本滞在に持ち越しにならなくて、よかった。

一年を締めくくる最後の最後に妙な体験をしましたが、思えば本当に好い一年を過ごしました。
(ゆ)