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 3日目・インスブルック散策(2024.7.17)
 
 

オーストリアの西部、人口約12万人のチロル州の州都。
古くはローマ兵が駐屯し、ハプスブルク家も王宮を置いた街で、バイエルンを撃退した戦勝記念の聖アンナ記念柱と、
マクシミリアン1世が建造した「黄金の小屋根」はインスブルックのシンボルになっています。
夏季は避暑や登山、冬季はスキーのメッカで、冬季オリンピックが2回開かれています。

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(黄金の小屋根)

チロルの領主、マクシミリアン1世が広場の行事を見学するために建造した建物。
5階建ての建物の屋根は2,657枚の金箔を貼った銅版で葺かれています。
バルコニーの手摺りには、領主の紋章や、皇帝と二人の皇后の肖像画などが彫られています。

マクシミリアン1世自身が、結婚によりブルゴーニュや現在のオランダやベルギー、ルクセンブルクの3国、
及び北フランスの一部を含む広大な地域を指すネーデルラントを獲得。


さらに、その子供のフィリップ美公とスペイン皇女・フアナの結婚により、イベリア半島の大部分と、ナポリ王国、シチリア王国を獲得すると…

孫のカール5世は、初代スペイン王とローマ皇帝を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築きました。

マリア・テレジアは1715年、オーストリアの名門中の名門ハプスブルグ家の長女として生まれました。
父は神聖ローマ帝国皇帝・カール6世。母は王妃、エリザベート・クリスティーネです。


マリア・テレジアはその後、フランツとの間に16人の子供をもうけます。

その多くは婚姻政策によって他国の王家と結婚し、ハプスブルグ家は大きな影響力を誇りました。

その中には、マリー・アントワネットも含まれています。
彼女はマリア・テレジアの末子であり、フランスとの融和政策のため、ルイ16世と結婚することになったのです。

婚姻政策は、血を流さずに領地を拡大する方法の一つでした。
マリア・テレジアはあくまで平和を好む君主だったようです。その政策は大いに成功し、彼女の時代にハプスブルク家は隆盛を誇りました。

因みに、マリア・テレジアはハプスブルグ家当主ではあるものの、神聖ローマ帝国皇帝ではありません。

皇帝の座に着いたのは、あくまでも夫であるフランツ1世でした。

しかし、フランツ1世は学者肌で、君主に向いていなかったようです。
政治のほとんどはマリア・テレジアが切り盛りをし、彼は趣味の研究に勤しみ、良き家庭人であったと言われています。

マリア・テレジアが「女帝」と言われるのは、彼女の地位によるものというよりも、その才覚と実績によるものが多そうです。

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(王宮)

15世紀にジグムント王が建てた宮殿をマクシミリアン1世がゴシック様式に拡張し、
その後18世紀にマリア・テレジアが大改造し、ロココ調の宮殿に改装しました。
白と鮮やかなクリーム色のマリア・テレジアイエローで彩られた宮殿の内部には、
マリア・テレジアの「謁見の間」や「白のサロン」「大広間」などがあり、豪華な天井画などが見られます。


神聖ローマ帝国の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。
ハプスブルク家は、
ボヘミアハンガリークロアチアスペインポルトガルガリツィア・ロドメリアとそれぞれの植民地の王、低地とイタリアの諸公国の支配者、
19世紀にはオーストリアと
オーストリア=ハンガリー皇帝メキシコ皇帝1人を輩出している。
16世紀半ば、
カール5世の退位に伴い、スペインとオーストリアに分かれ、別々の領土を治めたが、両家は密接な関係を保ち、頻繁に婚姻を繰り返した。
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(11:35 ブレンナー峠)
ここが、オーストリアからイタリアへの国境


エッツタール・アルプス?  ヴィルトシュ ピッツェ山?  
(11:45 西方面に高い山並み)
(12:04)
(12:12 フネス谷方面へ)
(12:35 到着)