アイドル不在
○「DEEP INSIDE」(2008年7月)掲載
ワイルドインベスターズ  発行

うえはらゆうき


 ここで暮らし始めてから、多くの日本人と知り合いました。中には我が家に宿泊して下さり、じっくりお話した方も少なくありません。
 振り返ると、これらの人たちのインド観には大きく二つにタイプが分かれるように思えます。一つは「神秘・芸術派」とでも言いましょうか。これまでインドが育んできた文化や精神的な方法に関心の強い人たちで、インドを肯定します。もう一方は「問題・現実派」とでも言えるような人たちで、否定的に捉えているわけではありませんが、異様なものとしてインドを捉えます。インド人との実際のやり取りで苦労をしている人で、とかくインドを邪険視する人もいますが、この派の1パターンと言えると思います。
 いずれにせよ、インドにハマるとおしゃべりになるというのが、共通の特徴のようです。それぞれ個々は別々でも、それだけ特殊性を帯びたものとしてインドでの体験が印象に残っていく証しだと思います。
 そして僕は、どちらかと言えば後者の問題・現実派の人間でしょうか。

 


 以前、インドの外国人コミュニティでおしゃべりしていたら、ひょんなことから妊娠・出産の話になりました。コルカタのそのあたりの事情に触れると、なぜか帝王切開による出産がかなり多いのだそうです。
 その背景には、どうやら医者の都合があるようです。つまり、医者は忙しい。近くの町医者にも私立の近代医療施設にも行ったことがありますが、どちらも待ち患者がずらりと並んでいます。これが産婦人科であるならば、溢れんばかりの患者を適切に診るためにも、いつ産まれるか分からない普通分娩より、陣痛誘発剤を利用したり、いくつかの条件が揃ったところで帝王切開に踏み切りたいというのが医者の気持ちでしょうか。さらに、帝王切開となれば手術料も徴収できます。
 都市によっても比率は異なるようですが、インドはやはり帝王切開率が高い国のようです。田舎地方と都市部という区分けでもかなり違いが出てくるだろうと思いますが、ホメオパシーやアーユルヴェーダなどの代替医療(非西洋医学的医療)も豊富な国という印象もあったので、「多い」と言われるといかにも意外でした。
 実際にコルカタで帝王切開での出産を経験しているアメリカ人女性は、「医者が帝王切開をしたがるの」と言っていました。「自然出産を望むなら、環境として一番よいのは日本よ」とも。ちなみに日本は、世界でも帝王切開率が極めて低い国なのだそうです。

Bhagirathi Neotia Women
& Child Care Centre

その名の通り女性と育児を対象とする
近代医療施設

 問題・現実派らしくこんなひと通りの邪推をした後日、ベンガル人の友人にこの件について話すと、しかし彼女は「帝王切開の方が、私はいい」と言います。連れ合いを通じて他の女性にも聞いてみましたが、かなり支持されています。逆に普通分娩を強く望むような人はありませんでした。
 どうやら"医者の言い成り"という事情ではないようです。

 僕たちの想像と全く異なっていて驚きました。これはいったいどういうことか。例えばテレビを観ていたらふと気づくことがあります。
 男女とも、日本のように"teen"のアイドル風の人が出てくることはほとんどありません。出てくるとすればまるっきりの子どもにまで、位置づけや年齢は下がります。街で見かけるこの年代風の人々はひょろっとしていていかにも頼りなげ、これがときどき髭を生やしたりしているものだからさらに奇妙です。これではテレビ映りも悪かろうくらいに思っていました。
 ですが試しにずっとテレビを眺めていてみると、映画やヒット曲のプロモーション映像、CMなどに表れている人物像や物語の価値観には、それ以上に根本的な価値観の違いがあるようです。その中に出てくる人々で目立つのは、男性であれば貫禄を感じさせる人。体はキレるしダンスも上手い、演技力が高くて役者としての迫力もあります。ヒロインは男性ほどの貫禄はなくとも、みんな大人びている。そして男性も女性も、感情表現や表情には何とも言えない色っぽさがあります。
 良くも悪くも大人の世界、放映する側にも観る側にもそんな前提があるようです。スター役者が同じような役回りで繰り返し出てくる頻度も高い。「確実なもの」への志向が強いのではないでしょうか。彼らこそがアイドルなのかもしれませんが、これは「完成度」という言葉にも置き換えられるかもしれません。
 きっと"型"のようなものもあるのでしょう。物語の斬新さや実験的なコンセプト、思いもよらない発見というようなものの優先順位は低いようです。ヒット曲は街のいたるところで流れていますが、どの曲を聴いても「インドっぽいよなぁ」とどこかその雰囲気を感じさせるのは、僕には分からない、はずせない"型"が上手く踏襲されているからかもしれません。
 これって日本人の歌舞伎や文楽、落語の落ちへの嗜好や、時候の挨拶などにも通じるものかな、と仮説を立ててみると、どうも日々見える風景が変わってきました。

街で見かけた映画館の広告の一部


 この街の中を少し歩けば、あちこちで祠などの祭祀施設を見つけることが出来ます。歴史的文脈が全く読み取れないスラム(都市貧民居住地区)の中にも当然のようにあります。
 通り過ぎる人の中には、それを見つけてしまったら拝まずにいられないような人もいて、それが建物の中のホールのような場所にあれば、わざわざ靴を脱いで、じっと祈りをささげる人が、時間潰しに読書をする横目に何人も入ってきます。
 これを信仰心の深さや困った時の神頼みのようなものとして、無宗教な自分との距離感を認めてしまうのではなく、例えば完成されたものへの無条件の好意のようなものとしてみてみると、どうでしょう。その心を、それなりの人が和歌や俳句の形式で詠めば、「分かるなぁ」という感じが日本人には強く沸いてくるのではないかと思えてきます。


街中の小規模祭祀施設


 すると、先の帝王切開の話も何故か納得がいくようになります。一つか二つでも不安要素があるのなら、高い医療技術をもって対処すべきだという考えが、医者と妊婦の間に自然に共有されるのではないでしょうか。妊娠しているわけでもない女性が、はじめから「帝王切開の方がいい」と考えるのも、彼らにとってきっと不思議はないのです。
 矛盾しているようですが、新しい近代技術を取り入れることには、ここの人々はほとんど抵抗がないのです(『コルカタ人のわからず屋』 参照)。最新のヒット曲に利用されている音やリズムは、インド国内にある伝統的なものとは全く異なるでしょう。でも出来上がった曲そのものに、どこかインドっぽさがあるのが面白い。
 またこの時代にあって、業績を伸ばし、巨大化してく大企業の姿には競争意識というより、頼もしさを覚える社会風潮があります。先日、外国車の有名ブランドを買収したニュースがいくつか流れましたが、そんなわけで経済的効果以上の思い入れがあるように感じてしまいました。
 このような雰囲気が思春期の若者に与える影響も大きいのでしょう。テレビ放映の中で登場場面が著しく少ないこの年代は、実際に会うとみんなアイドル気取りのような感じがしないでもありません。鋭い視線や立ち振る舞いに高飛車なノリがあります。彼らの英語が僕たち日本人には聞き取りにくいことなどを話してみると、「僕たちのはブリティッシュ訛りがあるからね」などと言って「馬ッ鹿じゃないの、全然違うよ」と、見当違いの返答に頭にくることがありますが、この言い訳自体にも彼らの志向が表れているのではないでしょうか。そして彼らの就職への悩みや努力には、切実なものを感じます。と言っても、帰属意識の強い人たちではないので、ダメと分かれば見切りも早そう。これはこの年代・世代に限ったことではありませんが。


僕たちのために
ベンガル料理の準備をするお母さん


 実際の付き合いの中では、過ぎるほどの人間臭さや温かみを感じる背景にも、「確実なもの」「完成されたもの」への無条件の好意のようなものがあるような気がしてきています。
 これまで出会ってきた日本人の中には、今のインドの勢いを『坂之上の雲』(司馬遼太郎著)や第二次大戦後あたりの"昔の日本"に見立てる人がありますが、どうも全然違っているように思います。それを理解するためには、やはり「神秘・芸術派」的な視点が必要な気がしますし、僕も少しずつ、この派へ変わりつつあるのかなと思います。


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