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仕事がキャンセルになり、時間が空いたので春美ちゃんとドライブ

場所は  @ 郡上八幡 (11:15〜12:10)
         ランチ … (13:25〜 )
       A 馬籠宿 (14:10〜14:50)
          馬籠峠 (15:10) → 大妻籠 (15:15)
       B 妻籠宿 ( ほんの少しだけ、車で通過 )

                            


郡上八幡のみどころ
清流長良川の支流である吉田川が市街地中心を流れる郡上八幡は、紅殻格子が特徴の民家や石畳などの城下町らしい風情があちこちで今でも残り、趣のある小道沿いには土産屋や個性的な美術館などが立ち並びます。また、400年の歴史を持つ郡上おどりは30夜に渡って行われ、全国から大勢の観光客が訪れることで知られます。静かで美しい町並みと郡上踊りに代表される四季折々の年中行事など、見どころ満載の名所です。
郡上八幡城
郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
 その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。
 明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。
 現在の城は、昭和8年(1933)、当時、国宝であった大垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は八幡町重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。
  
  

宗祇水(別名白雲水)

名水百選にも選ばれた涌き水で、古くより城下町の生活水として利用されています。連歌の始祖である飯尾宗祇がこの水を愛飲していたことから命名されました。冷たく、清涼感ある味わいが口内に広がります。

環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水です。
しかし本来は、由緒正しき史跡。

文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました。
「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな 常縁」
「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇」
惜しむ別れを清泉に託した2首の和歌が残されています。

いがわこみち

郡上八幡旧庁舎記念館の横にある鯉や川魚が泳ぐ豊かな用水です。
民家の裏手を流れ、夏になればスイカが冷やされオトリに使う鮎が篭に入れてあったりする光景も。

洗濯場が3ヶ所あり近所のおばさんたちの社交の場でもあったりするのですが、
最近はカメラなどを向けられるのを嫌がって、その数は昔と比べると減ったみたいです。

でも川に魚がいる、川の水でものをすすぐ、なんてことは少し前まではごく当たりまえのことでしたが、
それが名所のなるなんて少し哀しい気がしませんか?

Laundry Day

やなか水のこみち
やなか水のこみち
八幡町の中心に位置するミニ公園。町内を流れる川より拾われた約8万個の玉石を敷き詰めた小道を囲む美術館やギャラリーなどが城下町の散歩の途中に現れ、水のみ場や水の涌き出る石など、町の至るところに憩いの場が用意してあります。
尾崎の水舟

郡上八幡から北へ向かう旧越前街道(別名、上の保街道)が洞泉寺山の麓をぐるりとめぐる辺りが尾崎町。

ここは緑豊かな背後の山から湧き出る6ケ所の水舟や井戸が
「組」と呼ばれる昔ながらの共同体で維持されています。
住民の伝統的な水利用として宗祇水とともにしばしばテレビなどに
登場するところです。

 
尾崎延命地蔵
尾崎町の中ほどには延命地蔵尊が街道を見下ろすように鎮座され、枡形町にある延命地蔵尊とともにここがかつての城下町の入り口であったことを示しています。疫病や厄が町に入らぬようにという昔びとの祈りの表れです。

街道の山側にほぼ50メートルおきぐらいにある3ヶ所の水舟は、名所といった類いのものではなく、人々の日々の暮らしを垣間見るような感じのものですから、家々の軒下に隠れるようにあります。

車で通過するだけではつい見逃しがち。
家並みを注意しながら歩けば水舟と3ヶ所の共同井戸が見られるはずです。
   
御用用水

城下の碁盤の目の町割りにそって縦横に流れる清冽な水。
これは寛文年間(1660年頃)に城下町の整備をすすめた城主の遠藤常友が防火の目的のため4年の歳月をかけて築造したものです。


家々が密集し、2度の大火の見舞われた郡上八幡は火事にはとても神経質でした。今でも家々の軒先に下がる消化用バケツはいわばその伝統のなごりともいえます。

御用用水はその主幹水となって城下の下御殿や家老屋敷にも水を供給したことからこの名があります。

   
御用用水の初音あたりの清冽な流れ
柳町用水

御用用水と平行して柳町を流れます。水利用の仕組みはいたって簡単で、各家々が持っている堰板をはめこんで水位を上げ、
洗い物などをするというもの。

当番制の水路掃除はもとより、水をはぐくむ山林管理や水路の維持までひとつの掟のような厳しいルールでこの伝統は守られてきました。
吉田川にそそぐ乙姫川、最勝寺用水をはじめ町のいたるところでこのような水利用の風景は見られます。


13:25 恵那峡SAにてランチ


妻籠・馬籠





馬籠宿
坂の町『馬籠宿』。文豪島崎藤村の生地であり、歴史と文化の香り漂う宿場町です。
田畑に囲まれたのどかな山あいの一角に、観光スポットが”ポッ”と浮かび上がったようにたたずんでいます。
文豪「島崎藤村」のふるさと馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、
山の斜面に沿った全長600m余りの「坂に開けた宿場」です


馬籠宿は木曽谷十一宿の西玄関である。宿場は馬籠峠下の傾斜地に設けられた。西南方には美濃の平野が一望できる。天保期の記録では、町並の長さ約390m、人口717人、家数69軒、旅籠屋18軒の規模の小さい宿場であった。坂道に並んだ宿は火災に弱く、そのためしばしば火事に見舞れた。桝形は京方、高札場は江戸方入り口にあった。藤村は馬籠宿本陣の家の生まれである。
そこに人が住み、生活しながらつづけられてきたのが、妻籠宿の保存運動です。最初に保存運動が行われた寺下地区は妻籠宿の原点ともいうべき町並みです。
 家並みは素朴で繊細であり、昔の旅籠そのままに出梁(だしばり)造りや竪繁格子(たてしげごうし)の家々が並びます。
 家屋の細かいところに目をやれば、いたる所に工夫が施されていて、それらはあくまでもさりげなく、そのままに残されています。



妻籠宿 (江戸から42番目の宿場、1976年国の重要伝統建造物群保存地域に指定)

 中山道・木曽路と言えば『妻籠宿』と言われるほど、木曽路十一宿の中でもとりわけ江戸時代の面影を色濃く残している宿場。
その町並にひとたび足を踏み入れると、江戸時代にタイムスリップしたような気持ちにさせてくれます。
天保期(1843)には、宿場の町並みは約273m、江戸方から下町・中町・上町桝形をはさんで寺下の町並約80mが続いた。人口は418人、旅籠数は31軒となっており、古くは三・八の六斉市が許可されていた記録も残る。妻籠宿は、宿場の町並みとして見応えある景観である。現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町並みには電柱がなく、幕末明治初めの雰囲気を残している。



かわいい方から、素敵なプレゼントを戴く。
とっても暖かいので、うれしいな。

春美ちゃん、若い時ほんと苦労され、これからは楽しく過ごしましょう。
何事にも感動する姿は微笑ましいです。