寝ても覚めても
東京で暮らしていた頃のこと、お酒を飲んで終電を逃したときなど、なるべく路上で寝るようにしていたことがある。大阪である講演会に参加したときも、そ
の日の帰りには間に合わず、そうすることにした。
講演会の終了後、まずは食事をとる場所を探しながら、阪神大震災で被害の大きかった地区を歩いてみた。洋食屋さんに入ってビールも飲んで、気持ちよくま
た歩き始める。たまたま見つけた銭湯に入った。入浴者はさほど多くなく、湯船に浸かってゆっくり温まりながら、この日の講演などを思い返す。
どうもおかしい。僕がほかの浴槽や洗い場に移るたびについてくる人がいる。最初の浴槽で隣にいた人だ。もしやずっと? ちらちらとこっちを見てきて、様
子が変だ。
もう出てしまおう。こう視線を感じては落ち着かないので、浴槽を替えるふりをして、しれっと脱衣所に出た。手早く身仕度をしていると、まさかとは思った
が、彼も出てきた。
ひと足早く着替え終えた僕は、お金を払って階段をトントンと駆け下りた。そのあとをもうひとつ、慌ただしい足音がバタバタと聴こえてきて、戦慄が走る。
僕は明らかに追われている。
見るからに体格のよい彼をしても、簡単に手籠めにされる僕ではない。いや彼にそんな気があるのかどうか分からない。しかし、たまったもんじゃない。さっ
と路地に逃げ込んで彼の気配が感じられなくなって、その時やっと息をついた。少しの間そのまま身を潜めていた。
土地勘のない夜道を当てもなく歩いていたとはいえ、あんまりじゃないか。思いをめぐらせつつ路地を出ると、大通りとの交差点で、自転車を引く彼と出くわ
してしまった。動転を見せぬよう歩みは止めなかったが、そこからは、後ろにずっと彼がいた。
新大阪駅横のバス停のベンチに寝ることにした。駅までのしばらくの道のりで、コンビニに入ったり、道を間違えたふりで急に方向転換したりするうちに、彼はあきらめたようだった。しかし歩道橋の上からこちらを振り向く姿とまなざし、あれは何だ。本当にあきらめたのか、同じ雑誌を何度も立ち読みして、あたりを窺いつつようやく辿り着いた。あとは朝になって、新幹線に乗るだけだ。
けれど夜が明けるまで、ほんの小さな音にも目が覚めてしまう。その度に見回して、また横になる。そんなことを幾度も繰り返して、フラフラのまま東京へ
戻ってきた。
シミュレーションとしての体験
なぜこんな馬鹿げたことをしていたのか、弁明しないといけない。
その年の冬、僕はあるNGOのインターン・スタッフとして、ネパール首都部の街なかで、ストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちの支援活動に従事する
ことになっていた。国際機関や各団体が発行する当時の報告書やブックレットには、こうした子どもたちの、警察官らによる恐喝や暴行、大人たちからの性的い
やがらせ、強姦まがいの行為による精神的・肉体的被害について、必ず触れられていた。危害は主に、寝ている間に被るらしい。
その一方で、子どもたちが路上などの屋外で眠っている姿を収めた写真も、頻繁に目にしていた。支援活動をおこなう団体や、その活動に協力する写真家と子どもたちとの良好な信頼関係を示す、よい資料だ。布団もなく、何人もが寄り集まって折り重なり、顔だけ出ているような子もいる。楽しそうじゃないか、この小動物たちの様子にある種のときめきを感じたものだった。果たしてこんな寝顔で、恐怖の夜を過ごせるものだろうか。
そのギャップを、実践的に確かめてみたくて、路上で寝るようにしていたというわけ。連夜になることは無かったが、日本を出発する直前まで続けてみた。
ゴミ集めのストリートチルドレン
ネパールに滞在したのは二〇〇四年十一月から二〇〇五年二月までの約3ヶ月。後半のふた月ほどは、支援活動の業務とは別に、換金できるゴミを集める少年たちに、毎日のように会いにいっていた。
彼らはグループで活動している。朝早くからゴミ集積所に出向き、8時半くらいにゴミ回収車がやってくるまで代り番こに、あるいはみんなでここにたむろし、寒さしのぎに火をおこしていた。ゴミが持ち込まれるまでの時間つぶしに、その火でペットボトルを破裂させたり、プラスチックを溶かしたりして遊ぶ。み
んな大抵サンダル履きで、足の指先を怪我して、ぐじゅぐじゅになっているのも放ったらかし。捨てられたものの中に食べられそうなお菓子があると、それはそのまま食べた。1日2食という習慣で、朝一番から仕事をしているので、よくお腹を空かせていた。
僕は「ツァール」と呼ばれ、9人ほどの少年と顔なじみになった。おそらく≪sir≫が訛った呼び名で、おじさん、といったところだろうか。僕は出勤時刻
まで、平日は毎朝、この焚き火に当たりに来るという具合で過ごしていた。彼らには重たいゴミならば持ち上げるのを手伝ってやり、ときどきはネパール紅茶と
ドーナツを買ってやったりした。
「貧しさ」のでんぐり返し
この見出しを想起させたエピソードを、いくつか紹介したい。
1.
ある週末、少年たちの家についていっていいかと申し出てみた。気まずそうな顔をされるのではないか、そしたら来週から会いに来づらくなるな。そんな不安をよそに、彼らは何と歓喜した。「僕らの家に行くんでしょう?」「さあ、僕たちの家に行こう!」、騒ぎながら歩いていった。
彼らは自分たちの暮らしを見られたくないもの、恥ずかしいものとは思っていなかった。思い切って申し出たので拍子抜けし、それだけに、至らなさをみっともなく感じた。
2.
仕事帰りには遠回りをして歩いて帰るのを、僕は日課にしていた。ある日の夜、よく歩く道路沿いのドーナツ菓子の喫茶店前に子どもたちが集まって、やかましく声を立てていた。歩道からガラス越しに、中の客か店員か、残り物をねだっているのだと思う。横目で集団をのぞき込む僕を見つけて、その中のひとりが、
さっそく右手を差し出してきた。金をくれ、という仕草だ。
こんなのは日常茶飯事で慣れっこになっている。そのまま通り過ぎようとすると、子どもたちの中に、毎朝親しくしているディペシュとディリプの兄弟が加わっているのを見つけた。僕が振り返って、よっ、と声をかけると、ディペシュが抱きついてきて、そのまま顔をうずめている。たちまち他の全員が、それいけとばかりに僕に群がり、手を差し出してきた。するとディペシュが、「ツァールにねだるんじゃねぇよ」と追い返した。意外な展開だった。彼の肩をポンとたたいて立ち去ると、後ろで「誰のツァールよ?」と聞かれ答えるディペシュの声が聴こえてきた。
3.
ネパール滞在が終わりに近づいた頃、僕は初めて、一眼レフを下げて出かけた。彼らは僕の首からカメラを奪い、競って自分たちの姿にシャッターを切った。
次々と、次々と、後で現像すると、やはりへたくそな写真ばかりで愉快だった。
こいつらは、自分がいつも、汚れた同じ服を着ていることや、粗末な家に住んでいること、穢れたゴミを集めて生計を立てていることなんてへっちゃらなんだ。力強く生きている。≪ストリートチルドレン≫などという名札に臆することもない。 狂喜してシャッターを押す姿を見て、真実そう思った。生活改善のための支援活動とは、いったい何だろう。
4.
同じようなことを別の場所でも感じた。
僕はこのネパール滞在期間中、業務の中では知り得ないような、生々しいものを発見したくて、街なかをよく歩いていた。なるべく通ったことのない道を選んでいたため、ある日、知らないうちに貧民占住雑居群区(筆者による造語。以下「スラム」)に迷い込んでいた。その入り口でスケッチをとっていると、それを見ていたスラムの住人に声をかけられ、そのまま招かれて、彼の家でネパール紅茶とビスケットをご馳走になった。顔つきはチベット系、丘陵部出身の家族で、
既存のこの巨大なスラムの端っこに棲みついたのだという。
掘立小屋のような見てくれだが、うまく住居になっている。近くで安価に手に入れたもの、道中持ち歩いてきたもの、そこらにあるもので作り上げたのだろう。その空間は、生きる力に溢れているように思えた。近所には同じ顔つきの人が多く、きっと、こうした人たちの手助けもあったことだろう。
都市計画次第では、スラムの住人は急な立ち退きを強制され、すぐさま取り壊されてしまうこともある。社会的立場は弱く、それゆえ支援プロジェクトが多く存在する。僕もその側の立場でネパールにやってきたのだが、しかし僕たちは本当に、この人たちを支援できるほどの人間なのだろうか。生き抜いていく意思や力が、この人たちのようにあるだろうか。
≪場所を見つける≫ということ、さらにそこに≪棲む≫というのは、かなり高い人間力を要するものなのだ。ストリートチルドレンの子どもたちも、彼らなりの経験をもとに、細心の注意を払って寝る場所と方法を選んでいるに違いない。あの安らかな寝顔がその証拠だったのだ。ここへ来る前の日本では、ずいぶん安易な路上寝を試みたものだと反省する。
僕の初のスラム体験は大変刺激的で、また楽しいものとなった。二度目に彼の家を訪れたときには隣の家にも連れていかれ、自家製酒やスパイスを効かせた炒め麺なども食べさせてもらった。僕を見るために入れ代わり立ち代わり近所の人びとがやってきて、そうした人々との愉快なやり取りを、今でも時折り思い出
す。
視野の狭さは何による
家族で移住して4年が経つ。その住民としてまちつくりを思うとき、これらの経験がどうしても思い起こされ、考えさせられてしまう。
貧しさとは何だろう。貧乏から抜け出せないこと、とはもはや僕には思えない。貧乏が辛いこと、またそう見えること、とは言えるのかもしれない。格差そのものではなく、格差の捉え方であって、これは既成概念や、無頓着で、ときに暴力的としか言いようのないあきれた解釈に曝されるような外圧によるものと、自らの思い込み、つまり当人たちの内面に由来するものと、どちらもあるように思う。そこへ無関心の風が吹くと、貧しさは一気に進む。無関心にも、無視という
ような意識的なものと、気づきもしないというような、無意識的なものとがあるだろう。
田舎では何をするにせよ、とかく視野が狭くなりがちというのが、哀しいかな事実だ。この原因は、「地元の人が外に出かけていかない」ということがある。
しかしもっと大きな原因は、実は「外の人の関心が向いてこない」ということ。それもそうだ、現代では、都会と田舎には、場所の意味でも、認識の上でも、大きな隔たりがある。東京の住宅街出身の僕自身が、そのギャップを痛切に感じている。そんな当世にあって、都会の人々の関心を正しく田舎に向かわせること
は、なかなか難しい。さらに課題はそれだけではなく、外からの関心が向いてきたとしてもそれだけではダメ。そのとき地域の側が≪ON≫でないと、その風は
吹き止まない。僕たちの暮らしにも、思い当たるところがある。むしろ貧しさの真っただ中にあるのかもしれない。
そのような田舎は当地のみならず、少なくないのではなかろうか。これが解決すべき社会問題なのか、分からない。でも僕は当事者として、何とかしたいと願っている。無茶を伴うかもしれないが、無理ではあるまい。まちつくりなんて楽々と肯定しようじゃないか。 なお本稿を執筆するにあたって、都会と田舎とどちらが豊かか、あるいは貧しいか、それについての考えは持ち合わせていない。その答えにそもそも興味がない。この点、誤解のないようお願い申し上げたい。
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