インドから愛媛の海端へ
こんな田舎のカアチャンの話 
 〜インドを目指して〜
○「草のみどり」(2010年5月)掲載
○中央大学父母連絡会 発行

上原若菜



はじめに

 27歳。
自分のどんな27歳を想像しますか、あるいは想像していましたか。私は、中央大学に入学した2001年、9年後の自分が愛媛県にいて、海と段々畑に挟まれた田舎の集落に暮らしながらカアちゃんになっていようとは、夢にも思っていなかった。しかも、その前にはインド・コルカタ勤務、さらにそこで出産までもしていようとは。

 
 
とはいっても、今も当時も、大切にしているもののイメージはそう変わっていない。例えば、大事にしてきたインドとの繋がりは今でも濃く残っているし、どこか憧れていた人間臭い生活にも、今まさにどっぷり浸かっている。それから大切にしたい家族との暮らし。今は、農家見習いの連れ合いと、一歳半になる娘と共に、ここ愛媛県西予市の明浜町というリアス式海岸端で生活している。ド田舎ながら、世界各地の人が訪れるこの場所。人の手で積み上げられた遺跡のような石垣の段々畑。この平凡ながら刺激的な生活の中で考えていることを、書いていきたいと思っている。皆さんに少しでも刺激になれば、あるいは「こんな生き方もあるのね」と新たなアイデアにつながれば幸いである。今回と次回は、自己紹介も兼ねて、今の生活の基盤となっている学生生活、それから卒業後の様子をまとめてみたい。


悶々と、一年生。そして転機。

 16歳の時に、初めての海外でたまたま訪れることになったのが、インドだった。そこで待ち受けていたのは、活気と人間と動物と神様で溢れる街による圧倒と、あくまでも旅行者として眺めることしかできない、よそ者としての自分へのもどかしさ。その時に誓ったリベンジ、いつか戻ってきてここの人たちに近寄ってインドを実感したい、という思いがその後の活動の原動力となる。
 とはいえ、どうしたらいいか分からないまま、一年生の間は英語力向上と情報集めに奮闘する日々。実際には、英会話教室に通ったり、海外インターンをコーディネートする学生NPOに参加したりしていた。また、念仏のように心のどこかでいつも「インド」を唱えていた。
 
 悶々と手探り状態の一年生も、終わりに近づいた頃。北欧系国際NGOによる研修生募集の記事を見つけて飛びついたのが、転機となった。すぐさま一年間の休学を決め、まずは研修地のアメリカに飛び立った。半年の研修を経て、次の半年を念願のインド農村部で、続く2ヶ月を南アフリカで過ごすことになる。どちらでも、HIV・エイズや初等教育のプロジェクトに携わった。

 
この一年とちょっとが、大きかった。勢いで参加した感が強いが、日本人が自分だけという環境で初めて過ごし、度胸をつけたのが一番の土産だ。同期やスタッフ、職場の人々との議論や共同生活を経て、脳みそに世界各地のアクセントの英語や考え方が叩き込まれた。おかげで終了の頃には、それまでもっていた語学に対するコンプレックスは吹き飛んでいたし、共同生活や協働の楽しさ・難しさも骨にしみこんだ。さらに、組織運営に関わる無数のトラブルやハプニング(あるプロジェクトの中断、訴訟問題、研修生の脱落等々)に遭遇し、NGOというものに対する疑問・関心の種が無数に頭にインプットされたことも、その後の活動に大きく影響していった。


復学

 どうやら私は、手探りでも行動するとそこで意外な縁や展開に出会い、次のチャンスが巡ってくるというパターンを繰り返している。チャンスは、一見地味でも、直感が反応する。自分は全く持って感覚の人間である、と思う。
 復学後は、詰め込んできた疑問や関心を辿って、再び模索が始まった。ただ、この年は、模索しながらも、嬉々としていた。
 学内では、第三世界論や地域研究(南アジア)などを興味深く受講し、「NGO/NPOインターン」の一期生としても履修登録。法学部の「やる気応援スカラシップ」をもらって、夏休みに再びインド(今度は首都にあるNGO)でインターンをさせてもらった。また法学部棟のリソースセンター立ち上げに関わることになったのもこの頃で、海外で活動することに関心のある学生や教授陣とも親しくなった。特に外国人の先生方との距離がぐっと近まると、きさくな彼らの性格もあって
、情報量が増え、彼らの教え子といった人たちとの出会いも貴重だった。

 
 
3年生になると、進学や就職のことも頭を巡る。進学か、留学か、就職か、はたまた・・・。悩みつつ、それでもまだ足は動き続けている。結局そうやって動いていないと落ち着かない性分らしい。人脈と情報がつながるにつれ、学外の活動が増えてくる。公募の「日産NPOラーニングスカラシップ」という制度を発見し、何とか受かって(NPO法人)「シャプラニール=市民による国際協力の会」での有給インターンが始まった。シャプラニールは、南アジアで活動する日本NGOで、日本での国際協力・農村開発NGOの草分け的存在である。ここで、今の連れ合いと知り合う。(興味深いキャリアを持つこの人についても、また改めて紹介したいと思う。)
 また、非営利団体の世界の外はどうなっているのかしら、と思い、四谷にある北米系の人材コンサル企業でも有給インターンの募集を見つけて始めてもいた。これらのインターンを通して、国際協力の分野において、国内でもできることがたくさんあることを知った。途上国の問題・課題を国内の社会現象とどれだけ結び付けて見ることができるか。これは、視点や想像力の持ち方に拠るところが大きいということも、なんとなく分かる気がした。


就職へ

 4年生の春からは、当時メディアでも話題になった「ほっとけない 世界の貧しさキャンペーン」(通称ホワイトバンドキャンペーン)の日本事務局でアルバイトをすることになる。これは、世界各地で行われたキャンペーンで、日本でも国内の多分野の国際協力NGOがネットワークを形成して世界の貧困問題への日本社会の関心を高めようという動きである。このキャンペーンには、多くの企業も参加への関心を示したことが一つの特徴であった。考え方や企画のあり方次第で、営利・非営利との枠を越えて協働できる醍醐味。と同時に、すれ違いがちな業界の文化というか、それぞれの「常識」の壁も目の当たりにした。この時初めて、自分がどっぷり浸かっていたNGOの世界も、広く見れば、一業界に過ぎないことを知るのであった。今となっては、嬉しい失望であった。

 卒業後にまず企業への就職を選んだのも、このあたりが影響したのかもしれない。CSR(企業の社会的責任)活動を通してシャプラニールとも繋がりの深かった某損害保険会社に、縁あって入社。けれどその直後に、都内でサービスアパートメントを開発・運営するある企業の経営者に出会い、その人の強い誘いと人柄に惹かれて転職をすることになる。
 都内でのサラリーマン生活は、それはそれで充実していた。ターゲット顧客層の特色ゆえ、国内外の企業経営者や管理職の人たちと出会えたことも刺激的だった。概して彼らは皆おおらかで、付き合うほどに、若い私の個人的な関心やモチベーションに興味を持つのであった。そして口々に、今の仕事もステップにしてどんどん挑戦していきなさい、楽しみだね、と言ったのだった。

 結局2007年春、私はインドのコルカタにある日本国総領事館で働く機会を得る。個人の夢や熱意といったことを非常に大切にする社風や同僚・上司にも恵まれて、私がこの会社を辞めると伝えた時も、笑顔で送り出してもらったのであった。

 


アメリカでファンドレイジング中。この  日はキャンプをした。パン屋でもらったベーグルを焼く。






初めて過ごしたインド・ラジャスターン州の村。大きな池で水牛を水浴びさせる女性。














インドの村でホームステイをしていたおうちの三女。人形もサリーを着ている。














南アフリカのソウェトで、地元の青年グループと。この日、街で啓発活動をした。

 

 



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