梅の緒 〜後編〜
○「インド通信 365号」(2009年3月)掲載
○インド文化交流センター 発行
うえはらゆうき


 梅音(うめお)が生まれた日のことは、よく覚えています。
 連れ合いと二人で珍しく遅くまで起きていた夜でした。僕はさらに遅くまで、のん気に絵を描いていたら、先に寝た彼女が後ろから起きてきて、聞くと、いわゆる“おしるし”と呼ばれる出血があったとのこと。すぐ病院へ向かいました。
 着くなり彼女はそのまま分娩室に入りました。僕は受付に手続きに行くと、それまで同じ受付で何度も確認していたのですが、さらに必要なものがあることをやはり告げられました。当直医は「まだ生まれなさそう、朝まで様子を見る」と言うので、一度すぐ帰って、また来ることにしました。
 人通りも車通りも少なくなったコルカタの街を歩いて帰ろうとすると、病院の近くを根城にたむろしている野良犬の集団がすぐ気づき、僕に向かって一斉に吠え始めました。以前ネパールで数匹の犬に追いかけまわされた経験があり、せっかくの日に襲われてしまっては敵わんと大通りへ戻り、ようやく通りかかったタクシーを捕まえました。その時間帯の客は珍しいのでしょう、運転手はよく話しかけてきて、僕も興奮していたのか、どれくらいコルカタに住んでいるかや、子どもが生まれることなどを話しました。すると運転手から「(病院の)下で待っているので、無事生まれたら喜捨を与えて下さい」と言われ、妙な驚きがありました。
 病院に戻ってくると、今度は門番も眠っています。ようやく中に入れてもらい、まだしばらくある夜明けまでロビーの待合室で仮眠をとることにすると、同じような先客が何人もいて、彼らは周到に掛け布団や枕を持ち込んでしっかり眠っています。高級医療施設を利用しているとはいえ、この姿勢がすぐとれる習慣に感心しつつ、僕は積んであった新聞を枕にして、寒い夜を過ごしました。
 朝になっても「まだしばらくかかりそう」とのこと。それならばと、担当医のアドバイス通り家に帰ってシャワーを浴び、朝食をとり、Eメールで日本の親族に「もうすぐ生まれる」ことを取り急ぎ書き送り、また病院へ戻ると今度はほどなくして、いつの間にか生まれていたようです。放送案内で呼び出され、上階の分娩室の前に着くと、次の産婦が噂に聞いていた強烈な叫び声をあげており、外まで聞こえてきました。担当医が出てきて僕を見つけ、「綺麗な女の子、見たい?」と聞きます。大きな口の笑みです。
 少し待つと、必要な点検を終えた梅音が宝石のショーケースのような、縁が透明のベビーベッドに、白い布に包まれて出てきました。まだ顔や髪の毛に羊水が乾いてこびりついて、いかにも生まれたばかりといった感じ。そこへちょうど目が開きました。感慨深くほっぺなどをつついて楽しんでいると、担当医は「OK?」とすぐ僕を促して、この子をひょいっと持ち上げました。片手です。さらにお手玉のように左手から右手へぴょんと移し替え、蕎麦屋の出前のように肩の上でつかみ、ダンベルのようによいしょよいしょと持ち上げて分娩室へ戻っていきました。サリーとブラウスの大きな背中がたくましい。「ああ、赤子の扱いなんてこんなものでよいのか」とほっとし、何となくこの人が担当医で好かったなと思ったもんです。
 退院まで、“お父さん”は子どもと面会できないというのも印象的でした。見ることしか出来ません。見るといっても、限られた夕方の部の面会時間にガラス壁の向こうに陳列された何十もの赤ちゃんから探し出さなければなりません。「ショーケースのようなベビーベッドはこのためだったか」とも思えるほどで、その時間帯はインドの大家族が病室とそのまわりに集結し、大騒ぎ。奥では紫外線治療を受けている子もいるため青い光がこもれ、さながら水族館のようでした。

 さて、その後の生活の中で頭を抱えたのは、誰を信じ、頼ればよいのかということです。特に産後の食事や新生児の扱いについては経験者にアドバイスをもらいたいところ。ですが遠い都市でのこととはいえ、続いていたテロへの心配などから両親は渡印を早々に断念。まずは知人友人が送ってくれた書籍やインターネットからの情報を手がかりにしました。ですがこの、出産や育児にまつわる情報の、何て多いこと。しかもそれぞれに考え方の背景が異なっているようで、これには困惑しました。
 結局、それらの情報を自分たちなりに排斥、統合して、矛盾の少ない育児概念とコツをまとめることにしました。子育てについてもよく考えることになり、結果的にはよかったのかもしれません。
 とはいえ戸惑うこともありました。特に異様だったのは、妊娠が発覚した時から担当医に指示されてずっと続けていた、牛乳1リットル分の乳製品を毎日摂取することです。効用があるのならばと、毎日半分は牛乳のままで、もう半分はヨーグルトを作って食べさせていました。子どものアレルギー起因説はまあよいとして、しかし加工品ならまだともかく、他の動物の乳をこれだけ摂取する人と暮らすのが、正直気持ち悪かったです。それでも続けたのは、担当医と良好な関係を築くために、なるべく機嫌を損ねないよう気をつかったということがありますが、幸い連れ合いは苦にもしません。
 一方で、ベンガル家族との親交が深まったのは好かったです。母乳に良い食材や、ベンガル流の伝統的な育児法、手のかからない赤子の扱い方も教えてもらえました。多くの人が我が家へ遊びに来てくださいましたが、ベンガルの人は概して、若い子でも赤子の扱いが上手です。何より社交辞令的な雰囲気なんてまるでありません。実際の付き合いの中では、過ぎるほどの人間臭さや温かみを感じることのあるベンガルの人々ですが、意外にもアドバイスは一般論に止め、強引な指導という趣きのものはありませんでした。僕たちが自分たちで調べ、統合して作りあげた育児像ともほとんど食い違いがありません。
 コルカタでは帝王切開指向が強く、少なくとも「子どもは病院で生むもの」という認識が定着しています。つまり出産は「医療」の枠組みとなってしまっている一方で、あたり前に引き継がれている家庭文化のようなものがきちんとあるようです。そう考えると、僕たちが出産・育児に関する情報をたくさん集められたということ自体が、ある意味、日本のアンバランスな状況を象徴しているのかもしれませんね。
 産後の食事もそれまで通り、地元で手に入る食材でスパイスも利用した料理にしてきています。母乳のためによく勧められる和食に比べればそれなりに油も使いますが、それ以上にスパイスなどの効用が作用しているのかもしれません。これまで体調はすこぶる好く、母乳育児にも支障はきたしていません。海外で買い込んできて無理して作る和食よりは、こういった家庭料理を好みます。
 外国など異文化の環境や地域で、ある程度の期間暮らしていく場合には、それがそれまでの生活といかに異なるものであっても、その土地の慣習や作法にある程度は同調していくことを心がけたいと、僕は思います。ヒジュラの来訪があったり、配るミシュティをお土産のようかんでまかなったり、戸惑うこともありますが、結果的に情報は豊かで、刺激的なことも多く、愉しく、安全な生活となる気がします。梅音の誕生を通じて、そんなあたり前のことを再確認したように思います。

 最後に、もうひとつ。ここでの僕の役割は主婦ですが、その立場を快く思わない人とも出会います。コルカタでいったい何をしているんだ? という質問はよく受けますが、僕があまり語学が堪能でない上に仕事もしていないとあって、露骨に嫌な顔をする人もしばしばありました。しかし子どもが生まれてからは、まったくおとがめなし。とやかくあれこれ言われたことがありません。これがどういうことなのか理解までは出来ていないのですが、面白いエピソードのような気がするので、書き加えておきます。





【筆者について】
うえはらゆうき:
 早稲田大学理工学研究科で都市計画を専攻した頃から研究調査活動、自主活動の両面から日本農山村の地域づくりなどに関わりはじめる。同研究科博士後期過程中退後、シャプラニール海外活動グループにてインターン。2007年6月までは、地域協同組合無茶々園にて事務局職員として暮らし、初めて“住民”としての町作りを経験。同7月より、上原若菜の仕事に伴ってインド・コルカタに暮らし始める。


 
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