南伝干満003
 〜 俺たちジェンダーズ
うえはらゆうき

 最近は、はじめて会った人などに「主婦をやっています」と気持ちよく言えるようになってきました。
 先日も、NGOに長く携わっている方と食事をした際に、「(だんなさんの上原さんは)何をされているのですか?」と聞かれ、そのように自己紹介しました。すると、特に僕がどのような生活をしているのか具体的な話をしたわけではないのですが、「時間がたっぷりあるのですから、シタールでも習うとよいと思いますよ」というようなことを、出し抜けに言われてしまいました。
 彼女にとっては、《主婦》とは無条件に暇なもの、なのでしょうね。しかし、自身もネパールで女性の自立支援に取り組んだ経験もあり、市民活動などに参加し続けている方が、こういったことをおっしゃったことは、僕にとっては少しショックなことでした。 

 この方はジェンダー問題などへの関心から、これまで女性が担うものとして見做されてきた《主婦》という仕事、役割に、逆に偏見を持ってしまっているのかな、なんて僕は考えます。もちろん無意識のことかもしれません。悪気は全く感じられませんでしたから。

 ですが、これまでおそらく長い時間をかけて形成されてきたジェンダー(社会的・文化的な意味での「男らしさ」や「女らしさ」)には、何かしらの意義があるのではないか、と僕は考えます。
 そして、ジェンダー観は仕事や社会的な役割、立場の区別、形成と強い関係を持ち、互いに影響しあってきたのだろうと想像します。また男性中心社会をそういったジェンダー観がある意味支え、現在も様々な弊害を起こしていることは事実です。
 しかしそれでも、そういった社会的価値観が無視されてこなかった以上、何かしらの意義があると考えます。その中でこれまで形作られてきた仕事、社会的役割そのものも、当然無意味なものではないと考えます。だから、それらの仕事や役割が、世の中から単純に「なくなってしまってもよい」などとは決して思いません。形を変えつつも、誰かが担っていくのでしょう。

 さらに、何かしらの意義があるのですから、必要としていたり、求められているのであれば、古くからあるそれらの仕事や社会的役割に就くにあたって、セックス(性別としての「男」「女」)のいかんは問われるべきではない、というのが僕の考えです(『コルカタ満月記 第5話』参照)。
 男性が《主婦》をやってもよいし、そのパートナーである女性が外で働いたって、もちろんよいのではないでしょうか。それによって生じうる困難をどのように乗り越えるかは、別の問題、別の課題です。

 現代の《主婦》は家事の傍ら、家に居たって出来る仕事はたくさんあります。僕であれば、歩いているときにとったスケッチに色をつけたり、イラストを描いたり、このように文章を書いたりして、ちょっとした収入も得ています。昔だってそういった家内仕事はあったはずです。
 また、次のような考え方も出来るのではないかと思います。
 僕は、「幸せだなぁ」と思いながら生きている人は、それだけで社会貢献していると思うのですが、豊かな子育てに取り組んだり、家族や家庭が生き生きするために美味しい料理を作れるよう努めたり、多くの時間を仕事に集中せざるを得ない主人に代わって、幸せについていろいろ空想してみたりすることは、とてもクリエイティブなことであり、充分時間をかける価値があると思います。
 忙しいと言えるかどうか分かりませんが、想像力を膨らませれば、《主婦》が単純に暇だとは、言えないはずです。

 逆に、想像力を膨らますことが出来ない場合について、考えてみます。
 現在も《主婦》の多くは女性だと思います。《主婦》と女性を連想しないことは、意識的に取り組んだとしても、とても難しい。
 一つの考えは、そのほかの考え方にも少なからず影響を与えるものでしょうから、こういった《主婦》の捉え方は、結局は女性の可能性を狭めることにつながってしまうように思えてなりません。ともすれば反対、あるいは対(つい)の存在であるかのような、男性の可能性も狭めることになるでしょう。
 つまりは、世間へのまなざしを狭めてしまいます。これはもったいないことです。

 僕の中では、さほど飛躍した話ではないのですが、納得していただけますか? 《主婦》へのまなざし一つにも普遍性があり、《主婦》に豊かな可能性を見出せる人は、そのほかの仕事や役割にだって、想像を膨らまし、可能性を見出すことが出来るだろう、ということなのです。
 女性が企業などに所属しやすい環境作りも重要なことですが、これまで女性が担うものとして見做されてきた仕事や役割を、今までにない発想で、積極的に捉えなおすことも、また重要だと思うのです。前向きに捉えることが出来るのならば、相変わらず女性が担ったって、別に構わないじゃないですか。男性の仕事についても然りですが、そちらは少し進んでいるような気がします。

 ジェンダーは依然として存在し、僕たちは意識的、無意識的にその関係の中を生きてしまっているのでしょう。ですが、それ自体は問題ではなく、あくまで前提です。問題なのは、どんな形であれ、それに囚われてしまうことだと思います。
 真剣に判断し、歩み出し、取り組んでいくときに、ジェンダーなんかに囚われるべきではない。また囚われの色眼鏡やものさしで、単純に物事を見做すべきではない。
 囚われてしまっては、ただ未来は先細りしていく、そんな風に思いませんか。


※おことわり
 今回の文章は、冒頭で例にあげた女性を誹謗中傷するものではありません。彼女なりの経験や考え方もあるでしょうし、そもそも僕の捉え方が間違っている可能性も否めません。ですが、僕の考え方を振り返り、整理するきっかけとなったことは事実ですので、あえてエピソードとして紹介させていただきました。どうかご理解いただければと思います。



PARICHITIの事務所にて。
PARICHITIは家政婦が集まれる
場所を運営するNGO。

家主の中には、雇われ家政婦を
《すぐ替わりの見つかる存在》と見做し、
自分の思い通りに仕事をしない
場合には容赦なく叱りつけたり、
そもそも身分の低い人間として、
冷たく当たる人もあるそうです。

PARICHITIは、こういった状況を
ジェンダー問題の一つとして位置づけ、
改善に取り組んでいる。

わが家のごはん。


配置換え、大掃除の
終わった部屋の様子。


ベッドの上でイラストの手直し。

ある朝の一場面。



PARICHITIに
プレゼントしたイラスト。

2007年12月1日


>>もどる