天歩! 〜無茶々園を振り返って〜
うえはらゆうき

やっと歩き始めた子どもが梯子に登ろうとする。
これを「てんぽ」なことをするという。
この行為とどう向き合うか・・・



■田舎総合商社「無茶々園」

 無茶々園は「大地とともに心を耕せ! 無茶々園は環境破壊を伴わず、健康で安全な食べ物の生産を通じて、真のエコロジカルライフを求め、町作りを目指す運動体です」と設立当初からうたっている、愛媛県の片田舎を拠点とする団体である。無茶々園をご存知の方もいらっしゃると思うが、大まかに、生産団体と販売組織の両側面を、ひとまとまりに捉えることが出来るだろう。
 もともとは、この明浜町(現、西予市明浜町)の柑橘生産者が、無農薬を目指して柑橘栽培をおこなう農業生産団体からはじまり、ここで生産した柑橘類を消費者に届けていた。しかし、現在はジュースやジャム、その他の柑橘加工品のほか、この地域で採れるちりめん類、真珠商品、梅、梅加工品、また、愛媛県内を中心とした近隣地域で生産される米やヒジキ、いりこなどの海産物、はちみつなども届けており、田舎総合商社的な団体として発展してきている。しかし生産、販売の中心は、今も明浜の『柑橘』である。



■私たちの基本姿勢

 様々な切り口があるが、まずは中心の明浜の柑橘農業に話を絞ってみたい。上述の通り、無茶々園では無農薬を目指した柑橘栽培をおこなっている。化学肥料や除草剤は一切使用しない。
 柑橘類は、JAS有機でも認められている農薬も含め、五年間の栽培における農薬使用状況ごとに《格付け》が決まっており、例えば温州みかんであれば、出荷量に対し、生産者へは230〜170円/キログラムが支払われる(二〇〇〇〜〇五年度)。これは市場価格に左右されることなく、一定である。
 稀に逆転することもあるが、消費者にとって、市場価格と比べると、一般的に無茶々園のミカンは高い。しかし、「耕して天に至る」と表現されるこの急傾斜の石垣段々畑では、一農家できちんとした生産・管理をできるのは2ヘクタールと言われており、気象条件も含め、現在の生産環境ではこの価格を保証しなければ、生産者は生活できなくなってしまう。もともと独自の生産者組織としてスタートしている無茶々園の特徴とも言えるが、これまで何とか、生産者の生活主体の姿勢をずっと保ち続けている。それなりの販売努力と生産者の協力、そして消費者との信頼関係の上に成り立っている。
 明浜町の柑橘生産者は、みんな無茶々園メンバーであるかのような印象を持たれるかもしれないが、そうではない。無茶々園の栽培基準で生産しているのは、明浜町の農地全体に対して1割、多い地区でも6割程度である。栽培方法の違いもあり、一部対立的な側面が取り上げられてしまうこともあるが、一番大切にされているのは、無茶々園云々も関係ない、この町の秋祭りである。ちなみに、正月に戻らない人も、この秋祭りには、仕事も学校も休んで帰ってくる人が多い。私たちももちろん休業する。




■無茶々園の環

 もう少し広い観点から、無茶々園の主だった取り組みを紹介しよう。まずは、繰り返しになるが、農薬や化学肥料に頼らない柑橘栽培。環境保全のための生産管理を組織的におこない、明浜町の柑橘生産・加工・販売においてはISO14001を取得している。農薬の使用状況も、いつ、何のために、どんなものを使ったかを、各生産者、畑と柑橘の種類ごとに整理し、購入してくださる会員の皆さんに伝えている。
 農業体験や農業勉強を目的とする若者も、研修生として長らく受け入れてきている。この研修生をメンバーとして明確に位置づけ、ある程度大規模に、野菜や甘夏の出作り農業をおこなう『天歩塾』という取り組みもある。これは、みんなで有機農業をおこなっていくための実験農業とも言える。この『天歩塾』の専従スタッフとして、新規就農の柑橘農家として、あるいは無茶々園の事務局スタッフとして、研修を経た十数名が、現在もここで暮らしている。
 また世界八十八ヶ国田舎同盟の理念の下、ベトナムとフィリピンからの農業研修生を受け入れている。それぞれの国の村からやって来た彼らは、ここの方言そのままの農家の指示を解し、この遺跡のような石垣の段々畑で毎日汗を流している。もしかしたら、最も進んだ現代人と言えるのかもしれない。人手不足のみかん山には、かけがえのない存在となりつつあるとともに、独特のひょうきんさは、新しい風を吹き込んでくれている。彼らの帰国後も、お互いに協力し合える体制を築いていきたい。
 最近は、ニート、引きこもりと呼ばれる若者の再出発を支援するNPOとの協働もはじまった。地域福祉的な取り組みもこれからはじまる。私たちの営みが、この現代社会をいかに映し出していくだろうか。このほかにも、無茶々園メンバーの自主的活動のサポートまで含めれば、数え切れないほどの取り組みを展開してきている。






■仕掛け人は誰か

 無茶々園をはじめたのは誰か。
 もともとは1974年、農薬・化学肥料・除草剤の全盛期、つるつるぴかぴかのものを多くの人が志向していた時代、農薬を使用する栽培に疑問を持ちはじめた当時の若者三人が、地元の寺から借りた畑での無農薬柑橘栽培実験からスタートした。ということになってはいるが、本人らに問うてみても、恥ずかしがってまじめに答えてくれないのでよく分からない。その真実は・・・、しかし私たちにとって、それはさほど重要ではない。この三人も私も、トオちゃんカアちゃん、ジイやんバアやん、子どもたち、みんなが当事者、いわば仕掛け人は、不在である。十人に問えば、文字通り十人十色の無茶々園の捉え方が返ってくるだろう。これも無茶々園の特徴と言えそうだ。
 当初は寺から借りた、この実験園地の名前を「無茶々(ムチャチャ)」園と呼んでおり(名前の由来など、詳細は無茶々園ウェブページの『無茶々園の歩み』を参照いただきたい)、この園地名を、そのまま団体名にしたというわけだ。


■私がここへやってくるまで 〜大学時代とその後

 早稲田大学建築学の後藤春彦研究室に所属した頃から、研究調査活動と自主活動の両面から、農山村と呼ばれる地域に出入りするようになった。この中で、「地域づくりインターンの会」という活動に、派遣学生として三年間、最後の年には学生事務局長として、会の運営にも参加した。現在は、学生からの相談に応じる程度に関わっている。
 私が学生事務局長を務めたときには、6地域が地域づくりインターンの会に参加していた。この、複数団体が集まってやっている、ということに、私は魅力を感じている。それは一体どういうことか。
 毎年入学し、卒業するのが《学生》である。いわば借り物の、不確実な肩書きだけを背負った学生が、入れ替わり地域にやってくるわけだが、この《学生》とどのような関係を築いていくか、これは《まちづくり》の練習と言えるだろう。そして、その経験の蓄積は、《まちづくり》という日本文化を示す貴重な記録となるだろう。地域づくりインターンの会とは、この経験や記録を、いくつかの地域が協働で育んでいく取り組みなのだ。参加地域の前進性と社会貢献性こそ、評価されるべきだと思う。また、《まちづくり》が教育力を有するならば、学生は成長し、やがて日本が変わることにもつながるのだろう。この二十一世紀にはじまったばかりの社会実験を、これからも見守り続けたいと思っている。
 さて、地域づくりインターンの会の活動も含め、広義の地域づくりに参加していく中で、いつも頭をよぎっていたのは、「本当にその地域らしい地域づくりとはなんだろう」ということだった。修士論文を執筆している頃に、もっと厳しい環境で暮す人たちもいるのではないか、その人たちはどうだろう、と貧困問題などにも関心が発展し、シャプラニール=市民による海外協力の会という市民団体(NGO)の海外活動グループにインターンした。わずかの期間だが、プロジェクトに参画するため、ネパール、バングラデシュにも滞在し、よく歩いた。しかしながら、ここで目の当たりにしたのは、換金作物を栽培するために、美しい大地で一生懸命農薬を使う村人や、せっかく稼いだ日銭でゲームセンターに行ったり、シンナーを買ったりするストリートチルドレンと呼ばれる若者たち。スラムには自分の家の塀・壁がきっちり作られ、風を通す間戸はなくともテレビは置いてある。みんな《普通の生活》を望んでいる。そしてみんないい人たちばかりだった。プロジェクト内外で触れたこれらの経験は、いま思えば嬉しい失望だった。
 面白い共同体作り、これは、環境に左右されるものではないのだ。大切なのは《みんなの夢》を思い描き、向かえるかどうか。このきっかけやサポートに、外部者が果たす役割は大きく、この課題に対して、国内、海外という切り口、区分はもはや無意味なものに思われるようになった。
 その後、たまたま見つけた無茶々園という取り組みを訪問し、そのまま事務局職員として働いてきた。



「わくわく写真展」(ネパール開催)のために描いたイラスト

ネパールのスケッチ
■再び無茶々園 〜この風景に何を読み取るか

 そびえる段々畑の石積みや、あたりまえのように築百年以上にもなる集落の家々。このような風景が、私たちの現場である。この風景を目前に、どのような地域像・ビジョンを描こうか。泥んこになりながら山を上り下りする、息切れのしそうな農業が自ずと浮かんでくる。選択肢がなかったというよりは、この道の上をあたり前のように歩んできた。そして、自分たちの生き方を自ら問い直した都市生活者とも、がっちりと手を結んできた。
 順調に発展してきたというより、どちらかと言えば、いつでも問題だらけである。「助けてくれぇ」という弱音を吐く気は毛頭ないが、「来たれ、ここにこそ答えがある」と言えるほどの強気も全くない。無茶々園のメンバー、その一人ひとりを見れば、ずば抜けて有能というわけではない、恥ずかしがり屋の田舎人たちばかりである。ひとクセもふたクセもある。勘違いされることがよくあるが、強い意志を持った人々のコミューンというより、地縁的なコミュニティという方が的を得ているように思う。そう細かなことにこだわらずに、独自の理論武装とルールを築き、田舎くさく組織化していった、それが無茶々園である。そしてそれこそ私がまさに、「面白い!」と思える無茶々園の在り様である。というより、こんな面白い所は、ほかによう見つけんぜ。

 暮らし始めて二年、都合により、ここを去ることになってしまった。これからは《妻》としての生活が始まる。きっと、ここのよきオンナたちを日々思い起こすことだろう。
 無茶々園を振り返るにあたって、あらためて調べなおしてみたが、これまでの無茶々園を、全般的に説明できる資料は、やはりないようだ。というより、記録してきた形跡が、それぞれまるでない。何とも、反省のないことだとあきれるが、それもまあ、よいではないか。この風景の中で、おっとりと、ぶっきらぼうに、これからもこの道をガヤガヤと歩んでいくことだろう。皆さん、無茶々園をどうぞよろしく!



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