1192 京都トレイル 東山B
京都府京都市 442m |
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H29年3月19日 |
はうさん、kayoさんと3人 |
叡山電鉄 田中駅近くの駐車場着 |
3月19日
6:50 自宅発〜7:00 kayoさんの家〜7:20=7:35 養老SA 合流〜名神高速自動車道〜8:50=9:00 大津SA 休憩〜9:10 京都東IC〜9:45=9:55 叡山電鉄 田中駅近くの駐車場着〜
9:55 出発〜1回目の終点まで〜10:25=10:45 間違い〜10:45 トレイル 続き〜10:50 バプテスト病院から登山道に〜
10:50 大山祗神社〜10:55 右に〜11:25 白鳥山(北城出丸址)分岐〜12:15 てんこ山手前分岐〜
12:20 てんこ山(一条寺山城跡) 点名 掛橋〜12:30=12:50 ランチ〜13:05 石鳥居〜林道から離れて降る〜13:10 沢@〜13:15 沢A〜沢B〜
13:20 水飲対陣碑跡〜浄刹結界跡〜13:50=14:00 休憩〜14:10 千種忠顕碑〜行者道〜14:20=14:25 電波塔 休憩〜14:30 やどり地蔵〜
14:35 ケーブル比叡駅〜14:45 乗車(叡山ケーブル)〜14:55 ケーブル八瀬駅〜15:00 八瀬比叡山口〜15:15 乗車(叡山電鉄叡山本線)〜15:25 元田中駅〜
15:30=15:35 駐車場着〜15:35 出発〜16:30 京都東IC〜米原JCT〜17:40=17:50 養老SA 解散〜18:15 kayoさんの家〜18:00 帰宅
3月19日
6:50 自宅を出ます
7:00 kayoさんの家にお迎えに行きます
7:20=7:35 養老SAではうさんと合流して、名神高速自動車道〜で京都に
8:50=9:00 大津SAで休憩します
9:10 京都東ICから出ますが、連休の割には混んでない、、、かな〜。
9:45=9:55 叡山鉄道 田中駅近くの駐車場に、、
混んでました、、(;一_一)
銀閣寺近くの駐車場がいっぱいで、やっとここに着いて、支度をします
9:55 出発します
1回目の終点まで行、くはずが、、(;´・ω・)
教会、今日は礼拝がありますね〜
ここから、、道迷い
10:25=10:45 間違って、、坂を登ってしまった、、(;一_一)
10:45 戻って、トレイルの続きです。
10:50 バプテスト病院から登山道に、、、
ここでも、親切な方に、、こっちは違うよと、、教えてもらいました。m(_ _)m
右脇を登って行きます
10:50 大山祗神社に
参拝します
瀬戸内の大山祗神社が総本山??
10:55 右に進みます
ここは右に、、良く踏まれてます
11:25 白鳥山(北城出丸址)分岐に
今回は寄りません、、そのまま進みます
展望地
12:15 てんこ山手前分岐から
てんこ山に行きます
12:20 てんこ山(一条寺山城跡) 点名 掛橋です
ランチ適地を探して
12:30=12:50 ランチ
分岐手前の日当たりの良いところでランチです
はうさんから、漬物とプチトマト、m(_ _)m ごちになります m(_ _)m
13:05 石鳥居に出て、林道から離れて降ります
13:10 沢@を渡ります
結構アップダウンがありました(;一_一)
13:15 沢Aも渡ります
沢Bも、、街中よりは快適です
13:20 水飲対陣碑跡に
何か、、中国語だと思っていた、、(;一_一)
けれど、遺跡のようです。
浄刹結界跡に
13:50=14:00 登りが続いて、、休憩します
こんな道で、今日は人が多い
千種忠顕碑に寄ります
14:10 千種忠顕碑
戦時中の人かと思えば、、
大字千草の城山(しろやま)という所に残る中世城館の山城は、室町期全期に亘り、いく度も興亡を繰り返して来た砦です。
ここに登場する千種氏の遠祖である千種忠顕(ただあき)は、南北朝時代の軍記物の「太平記」に登場の人物です。
忠顕の父は六条権中納言有忠で、宮中に仕える公家でしたが、堂上衆の家に生まれた忠顕は、武勇に富み、
後醍醐天皇の信任を受け、近衛中将として側近に仕えました。
天皇が平安の昔に帰り、親政を志して、北条幕府の排斥を企てられ、それが察知されて天皇は笠置に逃がれ、更に遠く隠岐の島に配流になりました。
これを元弘の乱といい、この事変のときも忠顕は天皇の側近く仕え、警護に尽しました。
このときは伯耆(ほうき)国の武将名和長年が、隠岐島に幽閉の天皇の脱出を助け、船上山に迎えました。これにより討幕の論が各地に起こり、
足利尊氏もこのときは天皇親政に力を貸し、建武の中興が成立しました。
尊氏は建武親政の第一の勲功者として相模、伊豆を与えられたが、新田義貞を討つことを天皇に奏上。これが入れられず義貞に尊氏を討たすの命が下りましたが、
箱根で義貞は尊氏軍に敗れました。
また力を得て京都に向かい、これを迎え撃つ楠木正成、名和長年らが戦死しました。
忠顕は天皇を比叡山延暦寺へお移しして、京の白川口、八瀬口から四明岳へ攻め登る足利軍勢を、雲母坂で防ぐ。
更に敵は松尾谷の背後から攻め入り、忠顕は丸子の小高い丘で戦死を遂げました。南朝の延元元年(1336)六月七日でありました。
実は平成十八年九月十七日秋の彼岸に雲母坂の忠顕戦死の地を訪ねました。
都は東山五条から北へ上り、南禅寺前から白川通りを真直ぐに北へ、修学院離宮前から宝ヶ池を経て右へ折れて、八瀬の京福電鉄のケーブル駅からケーブルに乗車、
終点の「比叡」で下車して右手に階段を昇ると山際に、「千種忠顕卿戦死の碑」の横書の表示板に右の矢印がある。
暫く横に這うと左手に地蔵堂があり、ここからは道標に従い下へ降りる。あたり一面植林の檜林で、林の中の踏分道を二十分ほど降りると、
やや平坦な左右の道の辻に出る。この辻の西方に白く高い碑が檜林の闇に透けてみえる。
碑の正面に「千種忠顕卿戦死之碑」とあって、裏に大正十年五月建立とあり、碑の台石に横長の銅板には、京大教授の三浦周行の撰文が刻まれている。
碑の高さ3メートル、巾65.5センチ、基壇は三段の切石で積まれ、墓地の郭は東西、南北約9メートルほどで、角柱の玉垣で囲われている堅固な造りである。
基壇の銅板には建立者の「六条有熙(ありひろ)、小林正直、碓井小三郎、三浦周行、掃雲斉千種顕男」の名が読める。
碑の前の一本の桜は枯れ、周りは雑草が生えている。
なお、「千種塚旧址」は、碑の北方200メートルほどの登山道の左側に残る。この石標は高さ1.36メートル、幅47センチで建立年代は不明。
この塚の隠滅を憂い、先の大正十年の建立となった。「水飲対陣の碑」は、この旧塚を降りて修学院の鷺森神社の東方山の中にあります。(八幡町駒野静治氏の示教)
なお、千種城主の菩提寺である下村の禅林寺には、昭和二年七月「千種忠顕卿追遠之碑」が建立されています。
行者道から登ります
14:20=14:25 電波塔で休憩です
こんな展望
14:30 やどり地蔵を見て
14:35 ケーブル比叡駅に着きました
今日は、ここで終了です。
館内を見学してみます。
14:45 乗車(叡山ケーブル)します
あっという間に下山です。(^−^)V
14:55 ケーブル八瀬駅で、降りて少し歩きます。
八瀬駅に向かいます。
15:00 八瀬比叡山口あたりは静かです
15:15 乗車(叡山電鉄叡山本線)に
撮り鉄してみました。
面白い電車ですね。
15:25 元田中駅で降りて
15:30=15:35 駐車場に着きました。
15:35 出発します
16:30 京都東ICから米原JCTに
17:40=17:50 養老SAで、 解散です
18:15 kayoさんを送って
18:20 帰宅しました
今日は最初の大文字山の続きでしたが、
いきなり、間違い、、(;一_一)
街中が一番難しい、、、。
その後は山道で、まったりと歩き、比叡山の駅に
次回は比叡山からかな??
今回も多くの人とすれ違いました
人気の山域なのでしょう。
*行き 2時間55分(25分)
*行動時間 5時間35分(休憩時間 30分+ランチ 20分)
てんこ山まで 2時間25分(休憩時間 20分)
ケーブル駅まで 2時間15分(休憩時間 10分+ランチ 20分)
駐車場まで 55分
*帰り 2時間45分(10分)
*ご一緒した方のHP
はうさん
*画像協力ありがとうございました m(_ _)m