地域資源から地域資本へ | ||
うえはらゆうき |
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一般財団法人地域活性化センターがおこなう「全国地域リーダー養成塾」というプログラムの、平成26年度修了者研修会にて、第5分科会パネリストとしてミニ講義をおこないました。そのときの講義録です。 ウェブサイト掲載にあたり、実際に話した内容に、若干加筆修正しています。赤字の数字をクリックすると、対応するスライドの画像が大きく表示されます。 |
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原稿 |
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0.
導入 |
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■01 ○あいさつ うえはらと言います。よろしくお願いします。 学生の頃は、大学4年の卒論から、主任講師の後藤先生のもとで直接指導を受けてきました。後藤先生の大学研究室を離れてから、意図したところとそうでないところと両面ありますが、さまざまな経験を積んできました。今回は『地域資源から地域資本へ』という題目で講義を、ということでしたが、具体的な事例というよりは、話の中心は、その前段階のあたりのことを、僕なりの視点で、お話させて頂きたいと思います。
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1.地域資源を資本として育む生き様 〜なぜ農業をやろうと考えたか |
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■02
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■04 ○農山村に関心をもったきっかけとしての「老人」 先ほど申し上げたとおり、後藤先生の教室に所属するようになって、農山村の過疎集落などに出向くようになりました。まだ20歳を過ぎたばかりの頃ですが、そこで出会った人たちに、当時、衝撃を受けたんです。それはこんな、とても人間らしい老人たち。■05 ちょっと宗教家で、ちょっと医者、料理人でもあって、陶芸家、ダンサー、音楽家、エンターテイナー、大工もできるし、農作もできる。一つひとつは本業といえるような専門性はないけれど、こんな人たちが10人でも集まったら、どんなことができるだろうとワクワクしました。不思議とこれが、「格好いいな!」と思ったんですね。そういう人たちは、現在僕たちが住んでいる集落にもいるんですが、山や海から必要なものを取り出してきてしまう知恵であったり、省エネ技術ももう熟練というか、癖のようになってしまっていて、こうなりたいなぁと常々思っています。■06 共同作業に参加させてもらうこともたびたびあったのですが、要領も段取りもよく、作業中の雰囲気はなんだか祭りのようで、とても楽しい。こういう何でもない場面に、映画のワンシーンのような厚みを感じます。 また同時に、現代都会っ子という、■07 僕自身の現実を強烈に突きつけられたようで、後ろめたさもすごく感じました。僕たちにとっては、水道、電気、ガスといったライフラインというものは、文字通り集中治療室の生命維持装置のようなもので、どれかひとつでも断絶されたら、もうどうしようもなくなってしまう。先ほどの老人たちなら、例えば津波避難ということで山にこもっても、雨風しのぐ小屋のようなものをこしらえて、一日二日くらいなら、簡単にしのいでしまうのではないかと思います。
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■08 ○仕組みではなくて 話を戻しますが、学生の頃から農山村に通うことを重ね、仲間や先輩らと議論しているうちに、田舎らしさを象徴するあたり前のもの、いろんなもの、例えば文化とか、人間の気質とか、食事、技術、遊び、身の回りの小さな経済、祭り、風景といったものが、農業や林業といった生産的営みに関連がありそうだ、ということが見えてきました。はじめての就職活動のときには、そのことをかなり強く意識しました。大学を離れてNGOで国際協力の分野の勉強も経て、それまでに意識することの強かった農業の分野を切り口に、無茶々園という会社に就職しました。■09 現在住んでいる愛媛県の明浜を拠点に、地元生産者で構成する農業生産団体なんですが、主に販売に関する業務に従事するかたわら、生産者やジイやんら、カアチャンらの地域活動をサポートする役割も担いました。 しかしその中でだんだん気づいてきたこと。それは、いまだからこそ振り返って、こういう整理ができるのですが、農業の仕組みをつくること、またその仕組みに従事すること、それも大切なことではありますが、これらは農家を支えることにはなるけれど、地域のポテンシャルはなかなか上がらない。それができるのは、あくまで農家自身だったんですね。■10 さきほどの「老人」の能力は『生産的生活』に裏付けられたもので、それが地域資源の資本価値を高めている。これは仕組みではなくて、生き様として選択することが前提となる、そういうことに気づいてきたわけです。その生き様とは、昔なら、生活の一部として、あるいは身体の延長として、里山や海をもっと身近に捉える暮らしというものがあったのかもしれませんが、現代では、第一次産業の生産者として直接携わることしかないように思います。■11 どんなに良い仕組みを作っても、農業それ自体は良くならない。農家が良くならないといけない、ということが分かってきた。農家の方が格好いい、そう思いながら勤務していたのですが、たまたま、連れ合いの仕事の関係でインドに2年間暮らすことになり、一度明浜を離れる機会ができました。■12 インドでは、僕は専業主婦として過ごしたわけですが、彼女の仕事を通じたネットワークと、僕のフリーランスな立場と、そして、僕たちの一番上の子はこのインドで生まれたのですが、そういうことを通じて、とてもよい時間を過ごしたと思っています。連れ合いの仕事の契約期間が終了した後は、この経験を携えて明浜に戻ろう、と決めました。そしてそれをきっかけに、経済的に成り立つかどうかは別として、というか、あまり考えないことにして、今度は農業を本業にしたいと思ったわけです。■13 ただ実際に農業に就いてみると、農業の間口の広さというものが問題だなぁとよく感じます。いつでもだれでもできると思われているんですね。僕も早稲田大学を修了して、なぜこんなところで農業するのか、とよく揶揄されるけど、大学を出たからこそやる、誇りある職業として、農業が時代や当事者、もちろん地域内外で認知されていかないといけないなぁとよく思います。
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2.社会運動性について 〜若者が増えないわけ |
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■14 ○地域づくりがつまらない 過疎地域では、若者が減っていくということが共通の課題と言って過言ではないように思いますが、ここら辺のことを突き詰めて考えてみようと思います。そのために、■15 「地域づくりがつまらない」という、ちょっとショッキングな小見出しをつけてみました。 僕ももう、それほど若者というわけではないのですが、僕らの世代というのは、ただ単に都会育ちというだけではなくて、親の世代から、第一次産業に携わった経験のない人が多いと思います。僕自身、思い浮かぶ親戚の中に農山村に住んでいる人はいないし、農業、林業、漁業に携わっている人というのは、農協に勤めているオジサンくらい。■16 こういう境遇の若者は、僕たちよりも若い世代にはさらに多くなるんじゃないでしょうか。そういった人たちにとって、田舎のことや過疎のことを、どうやって自分たちのこととして捉えることができるのか。なかなかそうはなれません。これは思いのほか大きな課題です。どちらかと言えば、田舎のことというのは、物語とかおとぎ話に近い世界で、■17 ふんどしなんて、まだあるの? という感じ。 学生の頃の話に戻りますが、こんな育ちの僕でしたから、農山村に通うのはかえって刺激的だったんですね。一方で、そこで地域づくりを考えるのが、とてもつまらなく感じられた時期があります。いくつかの地域に出入りしていましたが、問題の捉え方がどこも同じように感じられたんですね。■18 根本的には定住人口の問題からスタートしていて、収入の問題に帰結する。求める人物像もどこか画一的で、個性も見えない。これで本当にその地域らしい地域づくりなんてあり得るのかな、あんな生き生きとした老人たちはどこ行っちゃったのかな、なんて思ったんです。定住ってそんなに大切なのか、これも疑問です。例えばそれが難しいのなら、『終の棲家のまちづくり』とか言って、ここは誰でも笑って死ねる村ですよ、最期は皆ここで死にましょうとか、子育て期間をこのムラの豊かな自然環境の中でやっていきませんかとか、期間限定的な移住促進というような、そんな自由な発想があってもよさそうなものなんですが、こんなこと言うと嫌われてしまう。こっちの方がよっぽど真剣だと言いたいくらいなんですが。
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■19 ○若者が増えないわけ(社会運動性について) そんな風に、僕なりにもんもんと考える中で、海外の貧困の人たち、もっと厳しい環境で暮らす人たちはちょっと違うのではないか、そんなことを考えました。世界の貧困問題に関心を持つようになり、シャプラニールという、日本国内では老舗格のNGOに1年間インターンしました。3ヶ月とわずかの期間ではありましたが、ネパール、バングラデシュ、南アジアでおこなわれているプロジェクトにも参加する機会を得ることができ、滞在している間は付近をよく歩いて、スケッチなどもよくとっていました。■20 しかしながら、みんな一緒。換金作物を栽培するために美しい大地で一生懸命農薬を使う村人や、せっかく稼いだお金でゲームセンターに行ったり、シンナーを買ったりするストリートチルドレンと呼ばれる若者たち。■21 スラムには窓もないのにテレビは置いてあります。みんな《普通の生活》を望んでいるのであって、同じように退屈を感じているんだなぁ、そういう現実を目の当たりにしてきました。 でもがっかりはしませんでした。このおかげで、僕にとっては国内、海外という切り口や区分は、もはや無意味なのだと気づかされました。またそう思えたことで、面白いことにも気づきました。■22 国際協力の活動に関わっていると、ああ、こんないい子が田舎にいたらなぁ、この子だったら田舎暮らしもできるな、という女の子がたくさんいるんです。女の子、というのがポイントなんですが、それはなぜかと言うと、分かりやすいんでしょうね。世界平和とか、すべての人が才能を活かせる世の中とか、人道的緊急支援とか、そういうものには絶対的な価値がある。でも、地域づくりには、それがなかった。■23 「オラが村ぁ、困ってんだ」では、それはお気の毒に、くらいの関心しか持てません。それが正直なところ。僕自身がそういう冷ややかな人間でした。でも例えば、オラが村あげてこんな社会貢献がしたい、こんな世の中を目指したい、みたいな言い方をされてみたらどうでしょう。もしかしたら一緒にやっていけるかもしれない。感化されて、未来に向かって手をつなごうと思えるかもしれない。■24 そういうことを模式的に考えてみると、地域づくりを、こんな風に整理できるんじゃないでしょうか。地域と、その協力者が、ある価値観を共有する。そのプロセスに地域課題の解決を組み込んでいく、という地域づくりのモデルです。地域づくりの範疇をプロセスに限るのか、あるいはこちらの図のように、■25 価値実現までを含めるのか。そこはまだ、ちょっと分かりません。
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○社会運動性とフロンティア意識 仕事がある、収入があるという状況だけでは、もしかしたらUターン者は増えるかもしれないけれど、Iターン者は増えないのではないかと思います。いくつかの就職の選択肢がある、という状況だけでは、むしろ選択肢は限られている、とう印象の方が強い。観念的にも、地域間のサービス競争に陥ってしまう。そうではなくて、能力のある、元気な若者には、学んだことや磨いた能力を発揮したいと思えるだけの社会性が必要だと思います。僕はこういった価値のことを「社会運動性」と呼んでいるのですが、地球規模の視野を持って、地域のフロンティア性をきちんと意識していくことが大切ではないかと思います。■26 僕がかつて入社して、いまは生産者の組合員として参加している無茶々園は、「有機農業」ということを取り組み始めた、国内では老舗格の団体。「食の安全」や「産直」といった生協運動とも結びついて、辺鄙な片田舎の集落を国内外の変な若者が、もう40年近い前から、常にウロチョロしていたようです。いまもその名残りが感じられます。
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3.家族と地域づくり |
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■27 ○田舎を舞台とした物語として 次に、地域はどのように表現されるか、というテーマに入っていきます。理論モデルを示すような、根暗な話はここまでで、最後に僕たちの暮らしの様子を少し、ほのぼのした雰囲気でお見せするつもりなので、もう少しお付き合いください。■28 もう何年か前の古いものなのですが、今回のように僕が人前で話すことがあると、よく使うお気に入りの写真です。何がお気に入りかというと、それは兎にも角にも、このおばあちゃんの存在です。僕は何か、わくわくするんですね。 この写真を見て、これがどういうシチュエーションなのか、ここに写っている人間がどういう関係にあるのか、想像できる人はそうはいないのではないかと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。これは僕の自宅で撮ったある記念写真なのですが、この90に近いバアちゃんは、この集落で生まれて、この集落に嫁いだ人。そんな人が、こんなガチャガチャした空間で、いかにも外国人の大柄な男を隣にして、なんの気負いも遠慮もなく、ここにいる。これってすごいな、と僕は思います。田舎を舞台とした物語として、このような出会いや交流が起こり得るんだ、ということを大事にしたい。
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○視野が狭くなりがちなのは何故か でも、田舎では何をするにせよ、とかく視野が狭くなりがち、という事実が仁王立ちしています。そのことについて、ちょっと考えてみようと思うのですが、これはなぜでしょうか。 それは、「地元の人が外に出て行こうとしない」から。と、皆すぐ考えると思うのですが、ですがもっと大きな原因があると僕は思っています。それは実は、「外の人の関心が向いてこない」から。■29 地元の人の中にも、外への興味を持っている人は、当然あります。ですが自発的なものというのは、何でも独りよがりなところがあって、視野の広がりは狭いまま、ということがあるような気がします。外からの、意外な視点が向いてこないと、閉じていた扉は開かない。■30 ではなぜ「外の人の関心が向いてこない」のか。それも当然で、現代では、都会と田舎には、場所の意味でも、認識の上でも、大きな隔たりが、やっぱりあります。東京の住宅街出身の僕自身が、そのギャップを痛切に感じています。そんな当世にあって、都会の人々の関心を、正しく、田舎に向かわせることは、なかなか難しい。ですが、先ほどの社会運動性を見出すことができれば、その舞台としての田舎は、思いのほか豊かです。そういう実感があります。■31 さてそして、ここがよく忘れられがちになるところだと思うのですが、実は、関心を向ける外側の人にも、関心を向ける理由というものがあるはずです。この写真の彼にも理由があります。だから、その関心に対する受け皿も必要になるわけです。外からの関心が向いてきたとき、その受け皿はどこが担うのか。ある価値観を実現しようとするとき、それにはどうしても「ひとり」ということに立ち返らないといけないと、僕は思っています。だから、その受け皿はやはり、まず≪個人≫が果たすことになろうと思います。そしてそこには当然、「お付き合い」が生じて、≪家族≫的な交流になります。
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■32 ○地域はどのように表現されるか ここでようやく、テーマの「地域はどのように表現されるか」について考えます。 ≪地域≫というものは、実は、これが地域だ、というようなもののない、どこかぼやけたものです。行政区分、文化圏、職業分類、祭りの運営など、切り口がいくつもあります。それなのに、それでいて、なぜか通り一辺倒な印象もあるものです。でもそれは、全部イリュージョンなんですね。同じ山を見上げても、キャッピキャピの女の子と、ベテランの山師とでは、見えているものが違う。季節や、天気によっても変わる。どちらが地域かと言えば、断然後者です。つまり例えば、冒頭の「老人」一人ひとりが語れば、≪地域像≫というものは、はっきりとして、生き生きとした厚みのあるものになるのではないでしょうか。逆に言えば、こういう、人間一人ひとりの特殊解的なフィルターを通さないと、地域というのは表現されず、認識もされないということ。 ちょっと変な言い方ですが、個人やその家族間の交流を通じて浮かび上がる≪地域像≫というものを模式的に表してみると、こんな感じ。■33 山本理顕さんという建築家が描いた集落モデルを参考に作ってみました。≪家族≫という存在を、地域の玄関口として捉えたようなイメージで作ってみたんですが、そういう玄関を通さないのは「勝手口」のようなもの。消費型というか、一見さんというか、長いお付き合いはできなさそうですよね。そう思えて、図を作りながら可笑しくなりました。こういう捉え方をしたとき、家族の数は、少なすぎても寂しいし、多すぎてもうるさい、というのは、実体験からも明らかなような気がします。それぞれの≪家族≫がどんな働きをするかによって、地域の色は濃くなったり薄くなったりします。
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○地域づくりの単位:≪家族≫ ちょっとここで、社会運動性の話で示した図を思い出してみて下さい。■34 この図ですが、この≪地域≫のところを、≪家族≫に置き換えてみましょう。■35 「地域づくりの範疇」として示した輪が、リアリティを持ってきます。あるいは、地域内の複数の≪家族≫をこの輪の中に組み込むこともできるかもしれません。■36 こういう整理をしてみて気づいたのですが、地域づくりの単位は、実は地域に根差した生活を送る≪家族≫だということ。お話としては、≪住民≫や≪集落≫を単位とする方がしっくりくるような気もしますが、下手に≪集落≫にお金をつけると、組織づくりばかりでどうしようもないことになってしまったり、≪住民≫一人ひとりと言っても、実感が沸かないのか、なかなか動きださない。どんな人づくり、仕組みづくり、事業起こしが必要かという議論よりも、何をやってもまちつくりになってしまうような人、その家族こそ大切なんだろうと思います。夫婦仲良くしましょう。
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4.なんち屋(私たち)の暮らし |
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■37 ○なんち屋のキーワード 最後に、僕たちのことをお話しします。ほのぼのとご覧ください。■38 僕たちの集落はこんな景観。石積みの段々畑が、集落の家屋群のすぐ背後から、そびえ立っています。これは時の権力者が命令して築いたものではなく、農民が自分の資産として投資していったもので、これが現役の農地、生きた景観です。この景色の中で、僕たちがどんな暮らしを送っているのかを、紹介していきます。■39 僕たちは、「なんち屋」という、地元地域の方言をもじった屋号を掲げています。この屋号は、主に農業生産やお客さんとの交流において名乗ることが多いのですが、お配りした僕たちのパンフレットにもあるように、キーワードとして次の5つを紹介しています。 ・農行(のうぎょう)となりわい ・「栽培」≠「農」 ・無肥料 ・地域づくりと家族 ・実践的研究 こういう風にキーワードをあげているんですが、僕たちとしては、それぞれのキーワードを分けて考えているというわけではなく、お互いに補完し合いながら、重ね合わせて考えているところがあるので、それぞれのキーワードごとではなく、暮らしの様子をざっくりまとめてお話していきたいと思います。
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■40 ○肥料に頼らない栽培 特にこの2年間ほどですが、肥料に頼らない栽培、というのを目指しています。もともと農薬に頼らない有機栽培を目指してきてはいたのですが、農薬依存を生み出す原因は、どうも肥料のやり過ぎというか、肥料の使い方に原因があるのではないかと考え始めました。木村秋則さんの『奇跡のリンゴ』で有名ですが、自然栽培という方向性です。 さてこういった栽培をなぜ目指すのかというと、僕たちとしては、消費者の食の安全というよりも、もちろんそれも大事なことではありますが、むしろ自分たちの環境保全、改善のまちつくりとして捉えています。■41 ひとつには、環境負荷をなるべく少なく心掛けようというもの。農薬を実際に散布して体に浴びているのは農家自身だし、その後にも空中に漂う中を、子どもさえ行き来することになります。少なくするように努めるのは大切だと思います。 もうひとつには、地元ジイやんらの昔話。あの段々畑が、あたり前のように遊び場だったそうです。里山が、生活的にも身体的にも身近だというのは、人間力形成において、とても大切なような気がします。普段の遊び場としてのみかん山を子どもたちに取り戻そうというような気運が高まったとき、その最先端にいる農家の側が遅れをとらないよう、その準備をしておこうというもの。■42 そのために、子どもも安心できる農地ということを心掛けたいんですね。うちの子どもが行きたいと言えば、写真のように、なるべく連れて行くことにしています。これは、伊予柑を一緒に収穫しているときの様子。■43 これは、薪拾い。伐採したみかんの木を、あらかじめ小切っておいて、それを家族で拾い集めに行きました。薪拾いというよりは、拾われた子とう感じ。 ただ、無肥料の栽培というのは、まだ実験中で、本当にやっていけるのか、分かりません。けれども、植物としての本来の姿を見るのですから、楽しいものではあります。果樹栽培というのは林業と農業の間の子のようなところがあって、苗木を植えてから経済栽培になるまで年月を要するので、そういう不安もありますが、『森は海の恋人』運動でおなじみのように、地下水、ひいては海の環境にもつながることで、正しい問題意識だと思っています。何とかして、プロセスも含めて、結果を出したいものです。
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■44 ○かんまん部屋 いつの間にか3年という年月が経ちましたが、築130年ほどになる古民家を改修して、それまで住んでいた市営住宅から移り住みました。僕たちは、この暮らしの拠点を「かんまん部屋」と呼んでいます。設計は、同じく後藤先生の三重大学時代の教え子で、僕の10歳年上になる、建築家の先輩夫妻です。■45 昨日は彼らの家に泊って、一杯やってきたところです。改修工事中は、その準備段階からしんどくてしょうがありませんでしたが、暮らしが始まると、やはりこの場所に力をもらっているな、という実感があります。■46 この屋根の下で、多くの人と交流してきました。以前は東京で暮らしていた頃の友人が泊りがけでやってくることが多かったのですが、最近は比較的近隣の知人・友人が、家族連れでゆっくりしていってくれる、ということも多くなりました。連れ合いも、ママ友らで集まって、一緒に味噌作りをしたり、子ども英語教室のようなものを開催したり、他にもいろんなアクティビティを生み出せそうな気がします。■47 どれも思い出深いのですが、かんまん部屋の交流で感動的だった思い出をひとつあげるとすれば、青年海外協力隊でフィリピンに行っていた連れ合いの同級生が、同期の仲間で、ここで同窓会を開いてくれたときのこと。■48 ちょうど農業の技能実習生としてフィリピンの若者が、この集落に多く生活を送っています。その何人かと、僕は特に仲良しなのですが、彼らも呼んで、囲炉裏でバーベキューを開催しました。■49 地元出身の先輩青年も一人、招待しました。フィリピン協力隊の皆は、帰国して以来の再会だったそうです。住所も全国に散らばっててんでバラバラ。この日のために、韓国の子も一人、加わりました。 お客さんが来ると、囲炉裏でバーベキューをおこなうのが我が家の定番ですが、いつにない大人数で土間が埋め尽くされました。金網で焼いているのは、このみかん山でとれたシシ肉。解体したのはこのフィリピンの技能実習生たち。しかも先輩青年以外は、生まれたときにはこの地に縁もゆかりもない人々で、それがこうやって集まって、こんなに愉しく酒を呑んでいるというのは、これは奇跡だと、勝手に感動していました。 ちなみに、イノシシの解体のときには、子どもたちをよく連れて行っています。一応、食育のつもりです。■50 かんまん部屋のコンセプトとして、空間はそもそも誰のものでもないのだから、みんなに使い勝手のよい場所として、開いておこう、ということがあります。現在までは、そのように暮らせているかな、と思っています。最近は猟銃が置いてあるので、そんなこと言っていると警察に怒られてしまうかもしれませんが。
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■51 ○農行をなるべく表現する 最後に、キーワードに掲げている言葉に、僕の造語があります。「農」を「行う」と書いて、「農行(のうぎょう)」と読んでいます。なぜあえてこんな当て字を考えたかと言うと、農業後継者不足の問題を考えたときに、農業で食べていけないからだ、という話がまずあがります。でも、それでは片手落ち。そもそも農業離れというのは、世界的な流れであって、それが経済的自立と関係するかどうかは、また別問題のような気がしています。他の職業より農業の方が収入が安定しているという状況が生まれても、決して農業人口は増えないと思うんです。■52 僕たちのような、他所から新規就農を希望する人間というのは、そこには現代社会への反省というような意味合いを含んでいるものだと思います。実際に、土に触れる、木のひとつ一つと向き合う、そういうことを通じて、人生観を自分で発見していっているようなところがあります。人生観を自分で発見するというのは、これからの時代でも大切になってくるはずです。それを、土に触れる、木と向き合う、そういうことを通じて行うことを、「農」を「行う」と書いて、「農行」としましょう、という提案です。そこで生まれる農産品を消費財として、経済的やり取りをおこなうのが「なりわい」の方の「農業」で、これは分けて考えないといけない。経済的な部分はもちろん大切ですが、専業農業にこだわる必要も、個人的には、感じていません。そんなことにこだわってなりふり構わず、えげつないことも平気になるよりも、生活の安定を図って、かつ生産的感性を持っていることの方がよっぽど大切で、みんな少しずつでも、庭先ででも、なにか育てて、収穫すべきだと思っています。と、ここまで掘り下げて、やっとライフスタイルと結びつき、そこで初めて、若者に伝わる何かがあるように思います。■53 片手落ちと言ったのは、こういう考察があまりにも抜け落ちているからなんです。 こういうこと全体をプログラムとして捉えたいと思っているので、農行を通じて見えてくるものは、なるべく意識的に表現しておきたいと思っています。自分の中で整理しておくということも大事なことなので、執筆や今回のような依頼も、全部引き受けるようにしてきています。単にしゃべりたがり、目立ちたがりという訳ではなくて、そこら辺はどちらかと言えば、実は根暗な性格なんです。僕たちが運営しているブログも、これも情報発信というよりは、文字通り「ログ」として、家族の記録を表現して、いつでも引き出せるように整理しておく、という意味合いが、僕たちにとっては強いものです。
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結論:「進化」と「変」 |
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■54 これでおしまいになりますが、最後に、地域と場所について、考えていることをしゃべって、終わりにしたいと思います。 なんとかイメージしてもらいたいのですが、きっと、「変」ということと関わりが深いと思っています。動物の進化を考えると分かりやすいと思うのですが、生き物の進化の過程は、環境の変化に対応して、それに合わせて成し遂げていったのではなくて、まずは無意味に、「変」な存在であったのが先だったのではないでしょうか。例えば、ゾウの鼻は、何かのために伸ばしていったのではなくて、なんか知らないけど伸びていってしまった。その時点では変な動物ですが、それは思いのほか使い勝手がよく、生き残っていった。キリンの首も、勝手に伸びていっちゃって、たまたまうまい棲み分けになっていた。「変」な特徴が、変化していく環境に適合していれば、生き残っていく。そういう流れなのだろうなと、想像します。■55 さて場所のほうに話を戻すと、同じように「変」な空間が、時代や気分の変わり目に勝負どころを迎えるということなのでしょう。もちろん、時代に合っていなければ、衰退して滅びてしまうこともあろうと思います。けれど、地域の中で「変」な場所が育まれていくというのは、気分を悪くする人や意地悪をする人が出てくると思いますが、次の時代をいち早く迎える可能性を、地域が秘めているということかもしれません。僕たちも、変な家族と思われているのは間違いなくて、それには、特に最近はしんどい思いが続いているのですが、元気よく過ごしていきたいと思っています。 今回は、地域づくりにおける社会運動性が重要だということ、そしてそこには、地域に根差した生活を送る、いくつかの家族が重要な役割を担うということ、この2つについて、学生の頃に出会った、主に田舎の老人たちの、地域資源を資本として育む生き様に感化された僕たちの経験などを織り交ぜながら、お話させていただきました。僕たちは、確かに地域づくりを意識して暮らしを送ってきていたんだぞ、ということを、この場を借りて、宣言と言うか、言い訳させてもらったというわけなんですが、■56 ご清聴ありがとうございました。
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