ショナモニ 〜頬ずりしたくなる
○『コミュニティ』No.152 掲載(2014年5月)
○一般財団法人第一生命財団 発行

 

 うえはらゆうき



 僕たちがその多くの時間を過ごしたコルカタ(旧カルカッタ)は、西ベンガル州の主要都市。かつてはインドの首都で、マザーテレサが活動を始めた街。ベンガル語を母語(注1)とするベンガル人が多数を占めますが、労働者、商人、経済人として、他民族の移住者も少なくありません。僕たちの長子の娘は、この外国の地で生まれました。
 妊娠が分かって、いろいろ検討を始めます。調べていくうちに、一般にインドでは、出産は医療の範疇として捉えられていることが分かってきました。帝王切開も多い。産婆や産院のようなものは、「あるにはあるだろうけど、スラムでしか見つからないんじゃない?」という知人・友人の見解。もちろん普通分娩を望むこともでき、医療で評判のよいインドであれば安全だろうと、まずは帰国しないことを決めました。
 検診で訪れた病院ですぐ目に留まるのは、「胎児の性別判断は法律で禁止されています」という案内板。超音波検診の際にも、「性別を医師に尋ねません」という誓約書への署名を、連れ合いは毎度させられていたそうです。
 お腹もぽっこり大きくなっているのに、全然気遣ってもらえない、僕たちのあいだで、そんな話題があがったことがあります。どうも、特別なマタニティー服を着ていないためか、気づかれていないようです。そういった服は、日本ではひとつの大きな商品群となっていますが、こちらでは売られてもいません。コルカタでインド女性がよく身に着けているサリーやサルワール・カミーズは腹囲の調整も容易で、確かにマタニティー服としても不便がなさそう。街には老若男女を問わず、「妊婦らしい」体系の人々が闊歩しており、特に目を引くこともないままに、実はその中に、妊婦が紛れていたのでしょう。ちなみに連れ合いは、お気に入りのワンピースが、たまたま産後まで使い勝手のよさそうな形状だったので、異なる柄の生地でそっくり何着か複製してもらい、むしろご機嫌に着回して過ごしていました。



(画像をクリックすると拡大します)


近くの大きなバザールの
八百屋へ通うのは日課だった。
店番している男の子は、僕たちが
滞在する2年間に、顔も体つきも
ずいぶん成長した。




退院してきた子どもをスケッチ。
まだ僕たちの枕より小さい。




コルカタの道の骨格は、
基本的にイギリス領時代から
のまま。道路に張り出す
大きな樹と、古い建物が
味のある雰囲気を作っている。




ちょっとした買出しに利用する
小さい八百屋のすぐ前で
おこなっていた、タクシー修理。
こういう場面に、まったりとした、
コルカタらしい空気が漂う。




アパートメントや商業ビルなどには、
門番がいるもの。どんな時間の
過ごし方をしているだろうか。
立ったり座ったり、やってきた人と
おしゃべりしたり、喫茶店から
様子を見ていた。
 さて産気づいたのは夜遅く、すぐに病院に向かいましたが、まだしばらくかかる気配。ロビーの待合室で仮眠をとることにすると、同じような先客が何人もいます。彼らは周到に掛け布団や枕を持ち込んでしっかり眠っています。かつて旅の途中、予定通り大幅に遅延する列車を待つホームでも、同じような光景を目にしたことがありました。この姿勢がすぐとれるこの人たちの習慣にあらためて感心しつつ、僕は積んであった新聞を枕にします。冷え込む夜をほとんど眠れずに越し、陽もだいぶ高くなってから、無事誕生の知らせを受けたときにはフラフラでした。
 妻子の退院後は、それまで日本人の来客が多かった我が家に、インド人の友人も訪れてくれるようになって嬉しいかぎりでした。年々人口が増加するインドでも、日本人の赤ちゃんにお目にかかるのは貴重な経験のようです。また、インドで出産するという僕たちの決断に好意を持ってくれたのかもしれません。体がしっかりしてきてからは逆に、それも次々と招待を受け、美味しいベンガル家庭料理にありつき、舌鼓を打つこともしばしば。常に政情不安を抱えるインドへの渡訪を見送った僕たちの親族に代わって、育児でも助けられました。
 招かれざる来訪者に困惑したことも。
 ある日突然、女装のヒジュラ(注2)が3人してやってきて、アパートメントの管理人が立会い、見守る中でも堂々と、高額現金、さらに米や衣類を、太い声で要求してきました。何か祝い事があると、そのめでたい側の方が、周囲に施しやもてなして振る舞うのがこちらの習慣ですが、それとも事情が違います。ちょっと相談させてよ、一旦はドアを閉めました。「追い返そうか」「そんなことして、また厄介なことにならないかな? 超能力を持つって言うけど」、僕たちもわけが分からなくなっています。催促のドアベルも鳴り止みません。結局、お世話になっているインド人にも電話で相談して、納得してもらえる額の現金だけを渡して、引き取ってもらいました。
 ところで、このインド滞在は2007年からの約2年間、実は連れ合いの任期契約の仕事に伴って移住したものです。僕の担当は家事全般、いわゆる専業主夫。毎日部屋を掃除し、クラクションけたたましく、埃立つ街を練り歩いて、混雑するバザールに買い物に行きます。その途中や散歩のときにスケッチをし、空いた時間にNGOボランティアや、ときどき依頼のある執筆やイラストの仕事に取り掛かっていました。
 そんな日課は産後も続きましたが、ときたまドブネズミか何かの死骸が路地に転がっていることがあり、これには何度もドキッとさせられました。うつぶせ寝をさせたこの子のお尻からの容姿に、サイズまでそっくりだったのです。
 我が家へやってきたヒジュラの一人を偶然見かけたこともありました。薄暗い玄関先では不気味でしたが、お日様の下では小柄で全く迫力なく、思わず苦笑い。
 連れ合いの人脈と僕のフリーランスな立場を通じて、さらにこの子の誕生をきっかけに多くの出会いがあり、おかげさまで、コルカタの生活を大いに味わいました。インドに精通する知人が我が家に立ち寄ってくれた際、「コルカタから入った人は、インドにはまりやすい」と言っていましたが、なるほど分かる気がします。
 とにかくやかましい街の音、灼熱の道路、雨季を知らせる冷気、水浸しの住宅街、湿った空き地にゆらめく蛍の光、街全体がポップアート、路線バスやオートリクシャの振動、みんなが大好きな青いマンゴーの季節、大人が戯れるような網漁の様子、ドゥルガ・プージャ、ベンガル文字の美しさ、植民地時代の建物群がつくる趣のある空間、何人もの偉人を輩出したベンガルの誇り、露店、犬やカラス、ゴミ山の大きな丘・・・、それぞれに内在するインド的要素に愛着を覚えます。思い出せばとめどなく溢れ出てきて、いつまでも筆を置けなくなりそうですが、このたびは、いまでも時折り質問される、インドでの出産体験について触れてみました。


(注1)
インドでは何語を話すの? とよく聞かれるが、これにはいつも困る。インド憲法では公用語のヒンディー語に加え、英語も公的共通語として規定されている。そのほかに、22の言語がインドの言語として憲法で指定されており、これらは「第8附則言語」などと通称される。ベンガル語もそのひとつ。しかし実際にインド国内で使用されている言語はさらにずっと多く、各州で地方公用語として採択されているものの中には、右記のように憲法に規定のない言語も少なくない。この事実やその背景を想像するだけでも頭がぐるぐるしてしまいそうになるほどに、「インド」という国を一括りに捉えるのは難しい。

(注2) もともと「半陰陽、両性具有者」を意味する名称で、男性が帰依して転成し、通常女装している。インド全土に存在する。超越的な力をもって婚姻や新生児誕生の祝福儀礼をおこなうのを正当な生業と言われているが、各地の社会事情などによって格差あるようだ。「子どもの誕生を祝いにヒジュラは来る」、僕たちはそのくらいの知識はあったものの、まさか外国人である自分たちのところにまでやってくるとは思い及ばなかった。



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