柑橘の種類に限った話ではないが、例えばみかんの木なら、枝の一つひとつが、まるで一本の木であるかのような性格を有している。それでいて紛うことなく部分である。その枝に施す一手は、このみかんの木との一生の付き合いに及び、一樹成れば千樹万樹と成すだろう。木と向き合えば、この身体が時空間を超えて、畑全体へとも広がっていくような気分だ。しかし一樹と向き合うにも、それには様々な手間が要る。かといって、その手間の一つひとつを効率よく済ませれば向き合える、というものでもない。
土と関係を持つ以上、農業は土地の広がりの制約を免れ得ない。これが難しい。制約となっている土地を広げるのか、もう一仕事、別のことをするのか、より丁寧な仕事をするのか。要領よくして派生した時間は他に代えがたいものであるだけに、農業者自身の価値観を見つめ直さなければならない。木と向き合うというのも、価値観の表れの一つと言える。
主婦の家事にも、同じようなところがある。
僕は以前、インド・コルカタで生活を送っていたことがある。しばらく勤め暮らしていた明浜を離れ、移住した。ここで二年間、連れ合いの仕事に伴って主婦として過ごしていた。
コルカタは、音の大きな街だった。古い車がまき散らす排気ガスと埃で、煙につつまれたようにもなっている。それでも窓を開けずには居られない。毎日部屋を掃除し、この街なかを練り歩いて混雑するバザールに買いものに行く。両手いっぱい、汗だくで家に帰り、この途中や散歩のときにとったスケッチに色をつけ、ブログを書く。彼女が帰ってくる時間に合わせて調理を始め、待つ必要があれば、気長にそうしている。なかなかに楽しい。こんな生活が続くことは、しかし僕にとってどんな意味があるだろうか?
彼女のだんなさん、なんて固有名詞も失ったまま人生を全うしていけるだろうか。外の付き合いがなくなって、社会における自分の位置づけが分からなくなり、悩ましいときがあった。けれども、この楽しさは、僕にとって確かに価値があった。
料理が上手になることも、絵がうまくなることも、毎朝丁寧に淹れたコーヒーがいつも通りの美味しさであることも、よかった。ベンガル文字の美しさに触れているのも気持ちがよかった。意味はなくとも価値がある、ということがある。ただ、主婦としてより良い姿を目指せばよかったのだ。
こんな考えに至ってみると、仕組みやルールを作ることで、幸せは得られないのだということも分かってくる。関わり続けてきた地域づくりや国際協力の限界点もこんなところにあるのだろう。それらを構築して得られるのは変化に過ぎない。問題は解決されても、次の欲求やリスクを生むことと背中合わせで、終わりがない。終わりがないのは仕組みの所為ではない。当事者が個人的な感性のうちに見出すしかない。得られるものではなく、何を必要として生きていたいかをよく考え、究極的には、貧しくてよかったと思えたときに現れてくるのだろう。
おそらく世界平和というのも、想像の世界のことだ。それが成ったとして、だれが実感できようか。平和なんて作るものではなく、暮らしの中で見出すものだ。それが地球の表面全体に及ぶような想像を持つことが世界平和で、想像力こそ幸福だ。
コルカタの生活はよかった。自分がただそうであることを貫くことを基本とせねば、満足できないと思うに至った。それは愚かなことかもしれない。それでいい。社会や時代を、賢く語れなくともいい。そうやって強者に成り上がりたくない。イワンのように馬鹿でありたい。物語を語るよりは、そのまま夢中になっている方がいい。分かるより、できる方がずっといい。コルカタで生まれた子どもを加えた三人暮らしの中で、コルカタを離れてからのことを考え始めた時期、連れ合いが、日本で暮らすなら明浜へ行きたい、と言い出した。素直に嬉しかった。そして、明浜に戻るならば。
農民になることを決めた。それが最も価値のあることだった。文化や気質、食事、技術や遊び、身のまわりにある小さな経済、祭り、風景など、僕の好きな、田舎らしさを象徴するあたり前のものを育むのは、生産者として生きることが一番だと思った。帰国して明浜に戻って以来、齊藤達文さんのもとで修行を積んでいる。毎日みかん山で農に汗かいている。よく働き、何かを生み出すことができるということは、素晴らしいことだ。
明浜は、僕にとっては今なお、奇妙な田舎だ。狭い平地に甍どうしがくっつき合うように建つ家屋群のすぐ背後から、天まで続くような急斜面に石垣の段々畑が築かれている。大規模で、遺跡のようだ。いや、まさに遺跡だ。機械化なんてできっこない、見るからに条件不利なこの場所が、この地域の生産現場である。世界中で、多くの人が、自然と農業をしたくないと思い、離れていっている。この時世を象徴するような日本において、こんなところで農業が続いていくことの不思議さから、読み取るべき何かがあるような気がしてならない。この段々畑にも、様々な時代が映し出されてきたことだろう。そしてその歴史の最先端に立っていると実感する、そのことに少なからない興奮を覚える。
そういう農業者として暮らし始めて一年余りが経つと、四季のサイクルを経験して知識も増え、みかん山にいる時間が長くなった。連れ合いも培ってきた語学力などを通じて輪が広がり、当時の自宅にも人の出入りが多くなっていた。二人目の子どもも授かっていた。そんなとき、「この家、買わないか」という話が回ってきた。空き家を借りるのも困難な土地柄で、見るからに金のない僕たち一家にこんな話が持ち上がるのも不思議で、なんだか可笑しい。
家作りをきっかけに、もう一枚、僕たち家族の殻を破りたい。農業がなりわいとしての経済的意味を失いつつある状況下、大きな出費の不安もぶっ飛ぶような家がよかった。
既成概念に搦め捕られることや、無頓着な自信が生み出す、ときに暴力的な解釈に晒されることを避け、もし何者かになることを本当に望むならば、もう日本なら、行く先は農山村にしかその場はないだろう。この時代の落人となって、逃れきるために。生きるのだ。おそらく農山村が次の時代に進むとしたら、この懐を養うことしかない。そのためには、そんな人々にも地域にも、つきぬけるような勇気と根性が必要だ。交流を重ねて、自信をつけることだ。もしこの家作りがこの地域の次の歩みと関連を持つとすれば、ならば、この田舎内外の人が集える《みんなの家》のような場所にしたい。それは《家》というより、所有格のつきにくい、もっと風通しのよい《部屋》と呼ばれるにふさわしい。そんな場所を営むことをもって、この地域に貢献していきたい。「かんまん部屋」という愛称案とこの思いを建築家へ伝えた。
建築家との打ち合わせは、EメールとFAXでおこなっていった。ときどき送られてくる図面やスケッチに心が躍る。築百二十年以上にもなるこの家屋の掃除や、残された家財や不要な壁、柱を処理していく、うんざりするような改修準備の励みでもあった。
改修は、現場が始まるとあっという間だった。変哲もない動作から、新しい空間が次々と生まれ、みるみるうちに立ち上がっていく。僕も農業に一ヶ月の休みをもらい、現場入りしていた。家主というより、誠実な働き手であることを心掛けた。古い家だったため、実験や、現場を確認しながら決めていくことも多かった。だからだろうか、僕には想定しなかったことが起こり始めた。
どうやら、これは、農民の家ではなさそうだ。現実になっていくにつれ、心が苦しい。かんまん部屋の理想と、僕自身の志しが、そもそも相容れないのだろうか。この建築の《農》とのあいだにある距離を思うと、それはどうしても遣る瀬無いことで、上述のような思いで農民を志した僕の誇りは、自らも腕を揮って立ち上がっていく空間や、建築家の言葉に傷つき、その過程でズタズタになっていった。この家を、拠り所として暮らしていくのか。
されど、それもよいか。これは我が牙城ではない。矛盾しているとして、それだけのことである。出来上がった空間はこんなにも豊かだ。家はかくありき、と固定観念の強い土地にも、新しい風を吹かせているようだ。「地域に染まるな。変わり者であれ」という、建築家からの、あるいは建築家の手を通して知らされた啓示かもしれない。濃密な人間関係を抱え続ける田舎暮らしにあっては、非常に過酷な試練に違いないが、間隙とどう向き合っていくかが、僕たちの地域づくりとなって表れてくることだろう。その様子を、次の時代の農山村を表す田舎らしさの象徴の一つとして、育てていきたい。矛盾するからこそ、思いもよらない暮らしを想像してみたい。未来が見えたら、それが人生だ。
これまでの農山村の議論は、農山村がどんな意味を持ち得るか、ということであったと思う。僕も議論に加担してきた一人だ。それはそのまま農山村を消費することにつながり、揺さぶり、すっかり疲弊させてしまった。自分の姿勢もろとも、そんな時代はもう終わりにしよう。農山村はそろそろ、価値そのものとして進化すべき頃合いではないだろうか。その糸口を、この《部屋》で模索していきたい。
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コルカタのスケッチや絵のいくつか
(クリックすると拡大します) | |