つまるところ、これまでの農山村の議論は、農山村がどんな意味を持ち得るか、という範囲にとどまっていたのだと思う。それはそのまま農山村を消費することにつながり、揺さぶり、すっかり疲弊させてしまった。そうとは気づかずに、僕も議論に加担してきた。
境遇に違いはないはずだが、明浜はその手の揺さぶりに動じなかった、というより、揺れたまま、それはそれとして、あまり気にしないでやり過ごしてきたのかなぁ、と思うことがある。それがよく表れているのが、この段々畑だろう。
集落の家屋は、狭い平地に甍どうしがくっつき合うように建っている。そのすぐ背後から、天まで続くかのような石垣の段々畑が築かれ、そそり立っている。大規模で、遺跡のようだ。いや、まさに遺跡だ。機械化なんてできっこない、見るからに条件不利なこの場所が、この地域の生産現場だ。
普通、田舎では、貯蓄に余裕ができれば家屋を立派にするものだ。しかしこの地域で農に携わる人々はそうせずに、まず段々畑に投資をしてきた。
文化や気質、食事、技術や遊び、身の回りにある小さな経済、祭り、風景など、田舎らしさを象徴するあたり前のものは、農業や林業といった、生産的な営みと関係している。明浜に、気後れすることなく生き生きと田舎臭さが漂っているのは、そういうわけではないだろうか。
僕は現在、この段々畑で、毎日農に汗かく暮らしを送っている。
柑橘の種類に限った話ではないが、例えばみかんの木なら、枝の一つひとつが、まるで一本の木であるかのような性格を有していて、はっとする。その枝に施す一手は、この木との一生の付き合いに及び、一樹成れば千樹万樹と成すだろう。木と向き合えば、この身体が時空間を超えて、畑全体へとも広がっていくような気分だ。様々な時代が映し出されてきた段々畑の、その歴史の最先端に確かに立っている。これは、僕にとっては幸せなことである。
また土と関係を持つ以上、農業は土地の広がりの制約を免れ得ない。当然のようで、これが難しい。制約となっている土地を広げるのか、もう一仕事、別のことをするのか、より丁寧な仕事をするのか。要領よくして派生した時間は他に代えがたいものであるだけに、農業者自身の価値観を見つめ直さなければならない。木と向き合うというのも、価値観の表れの一つと言える。
僕は以前にも明浜に住んでいたが、ここへ戻ってくるまでは、インド・コルカタで暮らしていた。二年間の任期付きではあったが、連れ合いの赴任に伴って移り住み、僕は主夫として過ごしていた。
最初の子はコルカタで生まれた。この子を加えた三人暮らしの中で、コルカタを離れてからは、当世の当事者であることを、さらに自覚して生きていきたいと望むようになっていた。主夫生活がその大切さを気づかせてくれた。
これまでの農山村議論を超えていく鍵も、そこら辺にあるのだと分かってきていた。矛盾するようだが、それは、この種の議論の根本にある価値観を、すっかり諦めてしまうことから始まる。だから――。
農民になることを決めた。生産者として生きることが一番だと思い至った。それが、最も価値のあることだった。
毎日、畑から海の表情を眺め、空を見て、風を感じる。四季折々、緑に触れ、小動物たちの動きに興奮する。牧歌的と言うのかもしれない。これも農を表す一つの側面である。しかし畑では、取り掛かっている仕事がどんな意味を持つのか、全体管理を忘れない。確実な技術を、実務を通じて発見していくことも、大きな使命と言えよう。そして、その総体たる農民が社会と関わりを持って、はじめて経済となる。
愉しい。あと何年、農民を続けられるか分からないが、その年の数だけ、結果は得られる。
みかん山で過す時間は長くなっていった。一年余りが経つ頃には、連れ合いも、培ってきた語学力などを通じて輪が広がり、当時の自宅にも人の出入りが多くなっていた。二人目の子どもも授かっていた。そんなとき、「この家、買わんか?」という話が回ってきた。空き家を借りるのも困難な土地柄で、見るからに金のない僕たち一家にこんな話が持ち上がるのも不思議で、なんだか可笑しかった。
家作りをきっかけに、もう一枚、僕たち家族の殻を破りたい。農業がなりわいとしての経済的意味を失いつつある状況下、大きな出費の不安もぶっ飛ぶような家がいい。連れ合いと話し合っていった。
既成概念に搦め捕られることや、無頓着な自信が生み出す、ときに暴力的な解釈に晒されることを避け、もし何者かになることを本当に望むならば、もう日本なら、行く先は農山村にしかその場はないだろう。この時代の落人となって、逃れきるために。おそらく農山村が次の時代に進むとしたら、この懐を養うことしかない。そのためには、そんな人々にも地域にも、つきぬけるような勇気と根性が必要だ。
自信は交流を重ねることで身につく。この家作りがこの地域の次の歩みと関連を持つよう、この田舎内外の人が集える《みんなの家》のような場所にしたい。「かんまん部屋」という愛称を、設計者に提案した。《家》ではなく、あえて《部屋》と呼ぶことで、所有格のつきにくい、もっと風通しのよい場所に、という思いを込めた。
わずか三軒隣りから引っ越してきてまだ間もないが、生活感が加わって、またぐっと良くなった。所々に、僕たちには親しみの深い、南アジアの場面を想起させる。
この場所を拠り所として、これからも僕は、もっと農民でありたいと思っている。それが、この地域の遺伝子に刻み込まれた、次の時代への視座を失わずにいる、一つの方法だと思うから。
農山村はそろそろ、価値そのものとして進化すべき頃合いだ。その糸口を、この《部屋》で模索していきたい。それも一つの公共と言えるだろう。この豊かな空間が、後押ししてくれるに違いない。