かなり多くの人が持っている「地域づくり」というもののイメージは、似通ったところがある気がします。ですが実際に話し合ったり取り組んだりしてみると、なかなか一致した意見にまとまらない。地域づくりインターンにおける学生へのまなざしにも、同じようなところがあると思うのですが、どうでしょうか。
「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノ」という言葉がよく引き合いに出されますが、学生には、どこか底抜けに明るいことが期待されているようです。しかしそう一辺倒では、ない。学部、学科といった、卒業するまでの期限付きの肩書きからは、個性はなかなか読み取れません。地域と同様、学生も多様です。繊細な子もいれば、協調性のないやつもいる。地域づくりインターンに参加しそうにないのも、学生の中には当然います。しかし実際には、例えばTシャツからはみ出てしまうほどの刺青を入れたおねえちゃんが集落の会合にちゃっかり参加してしまっていたり、そんなのへっちゃらで、さらに彼女の意見に耳を傾けてみる住民たち、そんな地域があるとすれば、その方がどこか豊かな気がします。ならば、そんな地域にするために何をしたらよいか。けれど具体的なアイデアなんて出てこないでしょう。事実、地域づくりには限界があるのだと思います。
少し僕のことを。僕が農山村と呼ばれる地域に出入りするようになったのは、大学研究室に修士課程の学生として所属するようになった頃からです。地域づくりインターンの会に参加するようになったのは大学4年生のときからで、派遣学生として3年間、最後の年には学生事務局長として、会の運営にも参加しています。
研究調査活動と自主活動の両面から、本当に何度も足を運んだ地域もあります。帰ってきて仲間うちと議論し、自分でもまとめたりして、また出かけます。そして何かつかんできたり、ときにはがっかりして帰ってくる。それを仲間うちと話せば盛り上がる。また行く。こういうことを繰り返し、そうこうしているうちに、僕は田舎というものが好きになりました。やがてその成り立ちや、実は意外なほど多岐にわたる豊富な情報というものにも関心を持つようになります。だから住民のみなさんに話を聞くのが、楽しくてしょうがなかった。特にじいちゃん、ばあちゃんの、僕たちにはない、どこか開き直った雰囲気が好きでたまりませんでした。
文化や気質、食事、技術や遊び、身のまわりにある小さな経済、祭り、風景など、僕にとって田舎らしさを象徴するあたり前のものには、ほとんどすべて、農業や林業といった生産的営みが関係していることにも、やがて気づいてきました。逆に言えば、このような生産的営みなくしては、田舎は田舎である意味を失うのではないか、そんな風にも考えました。もしそうだとしたら、田舎らしくあろうとするのも容易なことではありませんね。
しかしこういう理念を持って仕事をしたいと、それまでの経験で印象の強かった農業に的を絞り、農業を基盤に地域づくりを展開する民間団体、あるいは農村開発にしっかりと取り組んでいる国際協力NPO(NGO)に働く場所を求め、探し始めました。そこで最初に見つけたのが無茶々園です。かつてはここに事務局職員として勤め、現在は農業者として参加しています。
話が先に戻りますが、地域づくりインターンの会の活動も含め、広義の地域づくりに参加していく中で、いつも頭をよぎっていたのは、本当にその地域らしい地域づくりとはなんだろう、ということです。修士論文を執筆している頃に、もっと厳しい環境で暮す人たちもいるのではないか、その人たちはどうだろう、と貧困問題などにも関心が発展し、シャプラニール=市民による海外協力の会という市民団体(NGO)にもインターンしました。3ヶ月とわずかの期間ではありましたが、ネパール、バングラデシュでおこなわれているプロジェクトにも参加する機会を得ることができ、滞在している間は付近をよく歩きました。
しかしながら、このとき目の当たりにしたのは、換金作物を栽培するために美しい大地で一生懸命農薬を使う村人や、せっかく稼いだ日銭でゲームセンターに行ったり、シンナーを買ったりするストリートチルドレンと呼ばれる若者たち。スラムには自分の家の塀、壁がきっちり作られ、風や光を導くための窓はなくともテレビは置いてある。みんな《普通の生活》を望み、同じように退屈を感じているのでした。そしてみんな、いい人たちばかりだった。
プロジェクト内外で触れたこれらの経験は、いま思えばありがたい失望だったのかもしれません。国内、海外という切り口や区分は、もはや無意味なものに思われるようにもなりました。
国内、海外という切り口、区分を取り外してみるというのは、案外、良い転換かもしれません。これまで僕が経験したことや考えてきたことなどを振り返り、また僕自身のことを見直してみても、農山村をはじめとする田舎の地域が都市農村交流の協働の舞台となるかどうかのポイントは、誤解を恐れずに言うならば、社会運動性があるかどうかではないかと考えるからです。
僕自身は東京の出身です。親族の中にも農山村に住んでいる人はありません。同じような境遇の若者は結構沢山いるのじゃないかと思います。そのような人間にとって、《自分のこと》として積極的に関わっていく意味や余地を、どうやって農山村に見出せばよいでしょうか。僕はたまたま学問としてまちづくり、地域づくりというものに出会いましたが、そのチャンス、発想すら持ち得ない人が沢山あると思うのです。そしてこのような人たちが関わることによって、文字通り想定外の可能性がさらに広がるのではないでしょうか。そこで、多くの人と共有し育んでいける、少し大きな価値観が必要ではないかと考えるのです。地域づくりの独自性よりも、むしろこちらの方が大事なのではないか。
ここでひとつだけ、無茶々園の天歩塾という取り組みを例として紹介したいと思います。
天歩塾とは、農業体験を希望する一般の人々や、無茶々園のある明浜町に新規就農を希望する若者を受け入れる仕組みです。専従スタッフらと共同作業をおこなったり、明浜町の柑橘農家の下で研修を積むことができます。今後は漁業や食品加工など、農業に限らず田舎全体を体験できるものに発展していくことを期待するところですが、現在、国内外から年間50名前後が訪れています。本当にいろんな人がいるものだなと感心してしまいますが、おかげで都会っ子はもちろんのこと、黒人、白人、インド人、どんな人が歩いていても、集落の人は今では全く驚きません。それを逆に訪問した外国人が驚くといった具合です。残念ながら転居してしまった人もありますが、天歩塾の専従スタッフとして、新規就農の柑橘農家として、あるいは無茶々園の事務局職員として、僕が知っているだけでものべ30名以上が天歩塾を経てここで暮らしてきました。中にはここで結婚して、所帯を持っている者もありますし、移住こそしてこなかったものの、連絡が途絶えず、良い関係が続いている人もいます。
天歩塾に参加する人の多くが、「有機農業」に何かしらの関心を持ってやってきています。そしてこれが、無茶々園の社会運動性を象徴することばでした。天歩塾のみならず、自分たちの生き方を自ら問い直した都市生活者ともがっちりと手を結び、様々な取り組みを展開してきたわけです。
貧困問題や国際協力に関心を持つ市民のあいだにも、多くの人が参加していくことで解決していこうという機運があります。そして実際、本当に様々な人たちがそれぞれに思いを持って関わっています。これって、農山村の地域づくりの場で、ずっと求められてきたものではないでしょうか。
上位の地方行政団体や日本国といった枠組みを抜きにして、世界中にある様々な考えや動きと直接連携し、連帯を築くことができるわけです。理論的な整理さえきちんとつけることができれば、日本の田舎だって世界中見渡しても類のない、最前の現場ともなり得るということではないでしょうか。天歩塾の参加者に海外からの訪問者が多いことを見ても、可能性を感じずにはいられません。田舎ばかりの途上国でも然り、若者の流出に悩む田舎を世界の到るところで見つけられますが、世界中の田舎が手を結んで、新しい潮流を生み出すことなんて可能でしょうか。でも実現したら、その先には、のったりとした楽しい社会が訪れることだろうな。
僕はいま、そんな夢を見ながら、この遺跡のような石垣の段々畑で毎日農作業に取り掛かっています。まさかこんなことになろうとは、大学研究室に所属した頃は思いもしませんでしたが。
地域づくりやまちづくりには異文化の見知らぬ人の登場や違和感のあるアクションの発生を伴うものですから、まずそのような状況にみんなが慣れていくことも、また大切ではないかと思います。地域づくり、まちづくりというのは案外、癖や持病を抱えた人生のようなものかもしれません。こういうものは、治すよりも慣れることが大切。生活していれば現れてあたり前のものとして、共に生きていくことを受け入れることができれば、個性として輝くこともあるかもしれませんよね。社会運動性なんて言って動き始めたら、きっと地元では大反発が起きることでしょう。けれども、地域づくりの物語にいざこざと治癒はつきもの、なんてうそぶいているうちに、そのうち落ち着いてくるのではないかしら。地域づくりとは、ともすればこの段階に向かうまでの過程ではなく、この段階から始まるもの、勝負どころとも言えるでしょうから、とすれば、そうしていくほかないのです。地域づくりをやっていこうと決めたからには、根性が必要です。
この集落の人だって、どんな人が歩いていたってへっちゃらとは、もとからそんなわけではなかったはずです。でもいろんな人が集落の中を歩くようになって、それを目の当たりにしているうちに、それから「春、桜の下で、盆は仏と共に、秋祭りは氏神様と、正月は心新たに、色の黒い人、白い人、黄色い人、言葉は通じなくても盃を酌み交わせば、人類皆兄弟。」(「無茶々園の環」、『ちょっと退屈な日々』収録、昭和57年、自分達の本を作るための30人の会発行
)という価値観が生まれた。こんなことなかなか言えません。そしてこの受け止め方が、実にこのムラらしいではないですか。地域らしさなんて目指すものではなく、結局はおのずと現れてくるものなのかもしれないですね。
毎年入学し卒業する、いわば借り物の、不確実な肩書きだけを背負った学生とどのような関係を築いていくか、これはそんな練習にもってこいだと思います。地域づくりインターンに手馴れた地域が活き活きしているという話をよく聞くのは、そのためではないでしょうか。
それにしても、農民はよいです。よその産地で同じ作物を作っている農家が見にやってきたら、自分の技術を簡単にさらけ出してしまうようなところがあります。むしろ自慢気であったりします。もちろんそれ以外の部分での隠し事はきりがないでしょうが、企業秘密のような取り扱いに馴染みません。土地やその広がり、環境と切り離せない関係があるためか、すぐに目につくので、そもそも隠し通せるところが少ないのでしょうか。生き残りに一生懸命でも、競争というかたちにはならないようです。これが、いい。四季折々、空を見て、緑に触れ、小動物たちの生命の躍動に驚くようなあれこれの幸せはもちろんですが、まずはいい男いい女を目指すなら、百姓が一番さ。
いま、そんな実感が僕の中に生まれつつあって、とても面白く、興味深いところです。そしてやはり、だからこそ農業は地域づくりと強い結びつきを持っているのだと、僕は思うのです。地域づくりなんて楽々と肯定できる、そんな生き方をこれからも続けていこうと思っているところです。