●インド・コルカタへ
ずっと憧れていたインドでの生活。旅行者、インターン生、NGOスタッフなどとして、学生時代から何度も足を運んでいた。しかし、2007年からの2年間、職を持つ生活者として初めてのインド入り。
この期間、私はインドの在コルカタ日本国総領事館にて、「草の根・人間の安全保障無償資金協力」委嘱員として働いていた。これは日本の無償ODAのスキームの一つで、日本のODAの一部を、発展途上国と呼ばれる国々で活動するNGO等に助成をする制度だ。私の役割は、現地にいて助成を受ける団体と助成承認を下す外務省との橋渡しをすることだった。
●「草の根」制度について
スキームの概要を少し説明したい。この制度の下では、一団体最高一千万円が、地域住民の生活向上に役立つハードインフラに対して助成される。例えば小学校校舎、孤児院施設、職業訓練施設、井戸、基礎医療機材、等々。私がいたコルカタの総領事館の助成枠は、通常毎年度6〜7団体で、対象地域はインド東部の4州であった。
私の実際の仕事はというと、毎年現地の団体が提出してくる百何十通という申請書に目を通し、現地調査、インタビューなどを経て選抜、そして日本の外務省へ承認依頼を出す。無事承認されれば、送金、着工となり、承認から1年以内に完成をみる。その後は、適正利用されているかどうかのモニタリングを定期的に行っていく。まとめてしまえば簡単だが、国を越えての政府から民間非営利組織への送金となれば細かなやり取りは多く、またそれぞれの国の制度や考え方の違いも多々ある。助成申請をする現地NGO等とのやりとりも、これまた一筋縄ではいかない。
●現地NGOとの付き合い
現地団体とのやりとりにおけるチャレンジといえば、多様な言語によるコミュニケーションの難しさ。そして、通信インフラの格差。さらには、組織文化の違い。
動かすことのできない制度の枠組みの中で、日本政府という助成団体の側に所属しながらも少しでも彼らの際に寄り添おうと、試行錯誤しながら濃厚な2年間はあっという間に過ぎた。怒涛の日々の中で、同僚や現地NGOのスタッフ、また現地調査で出会った村人たちには、随分色々なことを感じさせられたように思う。特に、私の日々の仕事の中で一番頻繁にやりとりをしてきた申請団体である現地NGOのスタッフたちには、その仕事への熱意、生活向上への意欲や地域への愛着といった姿を見せ付けられ、その泥臭さと人間臭さに対して、素直に素敵だなと感じていた。
●家族のこと
ところで、私はコルカタに来る直前に入籍しており、配偶者ビザを持った連れ合いが、一緒にコルカタで生活をしていた。コルカタでの彼の役割は、主婦。文章を書いたり、イラストを描いたりといくつか仕事を持ちながらも、のんびりかつ刺激的なコルカタ生活を楽しんでいたようだ。それまで、愛媛県西予市明浜町にある「無茶々園」という会社の事務職員であったこの人。実はこの場所が、現在私たちが暮らしている場所である。移住、しかも農家を目指していわゆる「Iターン」をすると決めたのは2007年末のことで、さらに私たちが子を授かったと知ったのはその直後であった。家族が増えることを喜び、近所や職場の人にも大いに助けられながら、コルカタ出産も経験した。周囲に助けられ、出産直前直後も仕事を続けることもできたことは、実に有難かった。
●どういう生き方をしたいか
私がコルカタでの委嘱員の職に就いたとき、憧れのインドで、それも縁を深めてきた国際協力の業界での仕事だ、と純粋に喜んだ。と同時に、それまで手探り状態で進路を模索し雲の中を突き進んでいた道のりが、ちょうど雲の切れ間に着いたのかもしれない、とどこかほっとしたのも事実だ。そして、その雲の切れ間から何を思ったか。
仕事はとても充実していた。それまでのインドやNGOでの経験も少なからず役に立った。身につけていた現地言語も強い助けとなったし、自分の性格上も現地の人と親しくなるのに壁は低かった。国際協力業界での友人・知人のアドバイスにも大いに助けられたし、お役所文化は新鮮であり、ODAの一側面にじっくり付き合う貴重な機会となった。
また、仕事を通じて、国内外問わず、この国際協力業界で活躍する人々と出会う機会を多く得た。彼らの多くは進路や自分の役割を常に模索しており、新たなキャリア追求に余念がない。皆真剣で、それぞれ熱い思いを持っている。その姿には好感を持ちつつ、同時に、常に自分の進路に思いを巡らせてもいた。では、私はどうしたいのか。次はどこを成長の場所に定めるべきか、と。
そうやって出会う人々の中で、一番まっすぐに心にビビっときたのは、どういうわけか、現地NGOのスタッフたちであり、農村部において地域住民と共にある人たちであった。村のしがらみに苦労しながらも前向きに活動している人たちがよく記憶に残っている。特に、現地調査などの際に目にする彼らの姿は、どこか特別だった。根ざす地域がある、という誇り故だろうか、とも思った。彼らは職業としてというよりも、その場所に密着して生活して、考えている当事者であった。日本の農村の状況にも関心を持ち、私たちと会えば質問の嵐。そんな心意気にも魅かれるものがあった。そしてこれまで私が気になって追求しきたものは、職業ではなく、生き方だったのかもしれない、と思わずにはいられなかったのである。
●無茶々の里に行こう
コルカタ後の進路を考える上で、同じくこの業界でのキャリアを突き進む道もいくらでもあったろう。NGO業界の先輩や恩師達も、次のステップとしては海外の大学院進学を勧めたし、実際、多くの友人・知人がそうしていた。コルカタ後はアフリカのマラウイで同じポストを、という話もあった。有難い話ではあったが、それでも私たちは、今いる愛媛県のこの田舎の生活者となることを選んだ。
この田舎には、私も東京から何度か足を運んでおり、なぜか惹かれるものや人がある、特別な場所だった。あそこで暮らしていきたい。生活者として、地域に根ざして、自然の傍で泥臭く、人の間で人間臭く生活したい。そう思ったとき、とても自分の中で合点がいったのをよく覚えている。自然な選択であった。
私の選択に対して、国際協力業界の先輩達が見せる様々な反応も興味深かった。「完全なる進路変更」ととる人もいる一方で、「なるほど、そこに行き着いたか」と納得する人もあり。それだけ、これまでの私を知る人にとっては、色んな意味で衝撃的だったようである。
決断の直前、たまたま民俗学者の宮本常一氏の著書をいくつか読んだ。そしてなぜかじんわりと涙が流れた。ほっと落ち着いて共感できる、著者の関心どころ、それに歩み方が、心地よかったのだと思う。そして、愛媛への移住を決めたときの心持は、静かな雨が地面に降り注いでいくようであった。闇雲に突き進んでいた途中の雲の切れ間。そこから地に降った、温かい雨だった。
移住後の私たちは、連れ合いが農業の主な働き手で、私はその妻。と同時に一歳半になった娘の母親。もし次この地に戻ることがあれば生産者として、と考えていたという連れ合いの希望にも添えたことは何よりだ。彼にも彼の道筋がある。私たちのそれぞれ辿ってきた道筋が、今、明浜町の無茶々園のあるこの里、(「無茶々の里」と呼ぶ人も多い)で重なって動き出したところである。
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