インドの常態を探る | ||
○「DEEP
INSIDE」(2009年1月)掲載 ○ワイルドインベスターズ 発行 |
うえはらゆうき |
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インドの言語にはヒンディー語と英語の他に22言語あって、憲法の第8付則において定められていることから通称「第8付則言語」と呼ばれています。ルピー札のガンジーさんが描かれている面の裏には、1992年までに第8付則言語として定められたもののうち、マニプリ語とシンディー語を除く15の言語で金額が表示されています。12段目にあるサンスクリット語以外はいずれかの州の公用語にも採用されています。マニプリ語とシンディー語の表記がないのは何故だか分かりませんが、それぞれベンガル語で用いるベンガル文字、ヒンディー語その他の言語でも用いるデーヴァナーガリー文字で表記する言語なので、どれかとかぶっているのでしょうか。 ちなみにインドの公用語はヒンディー語のみです。インドの憲法において、連邦政府の公的共通語としてヒンディー語と英語の二つの言語の使用が規定されていますが、1965年以降は、英語はあくまで補助的な役割を果たす「準公用語」という扱いです。ですが実際には、インド人同士であっても英語で話す方が都合のよい場合は多いようですし、実際よく見かけます。ヒンディー語よりも英語を話せる方が就職にも有利なのでしょう。どうしても欠かせない言語に違いはありません。 |
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さて、第8付則言語に定められるということは、一体どういうことでしょう。例えばネパール語は、第8付則言語として追加されたのが1992年、比較的後発です。コルカタもその中のひとつである西ベンガル州のダージリン地方の丘陵部や、シッキム州に話者が多く存在します。 1992年当時もインド・ネパールはオープンボーダーで、人も物も行き交いやすく、就労、教育のために来ているネパール国民が多くインドに滞在していました。そんな背景もあってか、ネパール語は隣国の言語という認識が強かったようです。それまでネパール語を母語とする人々が非インド人扱いだったとすれば、そのネパール語がインドの言語として正式に認められたことで、インドのネパール系の人々が、初めてインド国民として認識された年と言えるのかもしれません。ダージリンやシッキム州には日本人の顔つきによく似た人も多いためか、連れ合いと下町を歩いているとき、子どもたちに「ネパーリ!」とからかわれたことがあるのですが、認定から15年以上経った今でも、その名残りがあるのかもしれませんね。 冒頭に「インドの言語」と書きましたが、実際にインド国内で話されている言語は2000近くもあると言われ、それぞれに言語コミュニティと呼べる集団があります。この中の特定の言語が憲法によって定められるということは、つまりその言語の背景にあるコミュニティが持つ文化がインドにとって価値があり、その歴史は重要で、政治的に無視できないものとして、インド社会に正式に認められたということでしょう。 インド憲法の前文にはすべてのインド公民に対して、「社会的・経済的・政治的な正義」「思想・表現・信条・信仰・崇拝の自由」「地位と機会の平等」、さらにこれらを促進するために「個人の尊厳および国民の統合と協和を保証する同胞愛」を保護すると明記され、指定カーストや指定部族(いわゆる社会的マイノリティ)の保護などについても規定されています。その憲法の中で公認言語として定められるわけですから、特にインドの周縁部に住む人々や、特定の地域や民族との結びつきの強い言語を母語とするコミュニティにとっては、社会に対する影響力、存在感をより確かなものとして実感できるのではないでしょうか。広いインド全域で利用できるルピー札に自らの母語表記がなされているというのは、大きな出来事のように思います。 |
コルカタの下町。 朝早くで人気が少ない |
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インド全体から見れば、付則言語として認められたことでようやく、象徴的に権利を得られたかに見えるそのコミュニティも、地方地区レベルでは違って見えことももちろんあるでしょう。先の例で出したシッキム州では、チベット系(ブティア族)、さらに先住のレプチャ族が、イギリス領時代に労働力として流入してきたネパール系に対して少数派となり、ネパール語が州の公用語に定められています。王国としてもともと上位にあったブティア族とレプチャ族ですが、反王政と民主化の流れに乗ってネパール系が権利を獲得していったようです。 逆にダージリン丘陵部はシッキム州のように独立していないので、地方地区レベルでは多数派のネパール系は、西ベンガル州全体では逆に少数派です。しかもかつてはインド人としてではなく、ネパール国民として扱われ、多数派であった地区内でも不平等な境遇を強いられていたようです。80年代からはダージリン地方を西ベンガル州から独立州として分離することなどを求めた運動(ゴルカランド運動)が起こり、一部の活動家は過激な行動もとっていました。これに端を発する活動は現在も継続されているものもあります。たびたびストライキを呼びかけており、地区の情勢不安を引き起こしています。民主化が進む中でネパール語が公用語となり、特に1970年代後半からは安定した状況が続いているシッキム州とは対称的です。(補注1) |
こちらはネパール本国を 訪れたときの写真 |
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サンタル族の村にて。 歓迎の様子 |
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≪補注≫ (補注1)インドのネパール系住民の社会運動に関しては、関口真理氏のレポートに詳しいので、ご覧になってみてください。『ネパール系インド人と社会運動』<http://homepage3.nifty.com/~mariamma/mar-nep3.htm>、『インドのネパール系住民』<http://homepage3.nifty.com/~mariamma/mar-nep4.htm> (補注2)外務省海外安全ホームページ<http://www.anzen.mofa.go.jp/> (補注3)DRCSC(Development Research Communication & Services Centre)日本語版サイト、『プロジェクト雑感』中の2008年9月「不思議の国インド」の記事より<http://www.drcsc.org/impressions~jp.html> |
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